「だから」は男色の詩。
このエロ写真が街頭で売っていたぞ、
こっそりと(警察の眼を盗んでな)。
本番の写真じゃないか。
なのにどうして夢のように美しい顔が登場するのか。
きみがなぜこの写真の中に入っているのか。
ふいに知ってしまった恋人の現実。それをとがめているのだが、「口調」がそれほど厳しい感じがしない。
きみのこころはいかにも安ぴか。ほかに考えようはない。
だが、とまれこうまれ、いやこれ以下でも、
私のきみは夢の美のかんばせ、
ギリシャ的快楽のために造られ、捧げられた姿。
私にとってのきみは永遠にそうだよ。
私の詩がきみを歌うのもそれだからだよ。
カヴァフィスは「きみ」のすべてを許してしまっている。
「私のきみは」の「私の」ということばが強い。所有形というよりも、「私」が「きみ」になってしまっている。美しいのは「きみのかんばせ」だが、それはカヴァフィスが「美しい」というから「美しい」のである。一連目で「顔」と言っていたが、この2連目では「かんばせ」にかわっている。カヴァフィスは現実の「顔」を見ているのではなく、「文学」(古典/古語)のなかで見てきた「かんばせ」を見ている。だからこそ、「きみの」の前に「私の」がつく。「私のかんばせ」なのである。
それはいま書いたことと重複するが、「ギリシャ的」である。「伝統的」「古典的」でもをる。「文学」のために造られた「かんばせ」なのだ。「文学/古典」であるから、それは「永遠」でもある。
「きみ」は何よりも「ことば(文学)」の中にいる。
だから、(と、ここでタイトルが出て来る)、だから、私の詩がきみをうたうのだが、カヴァフィスはこれを倒置法をつかって、
私の詩がきみを歌うのもそれだからだよ。
という。「だから」ということばの方を強調している。
そして、「きみのかんばせ」が「私の」ものであるように、「私の詩のきみ」こそ、「きみのもの」だよ、とカヴァフィスは言うのである。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
クリエーター情報なし | |
作品社 |