一 政治的共同性を騙る者たち
鮎川信夫と北川透が対談したときのことを書いている。「思想的な肉眼の成熟」(現代詩手帖、1980年04月号)。黒田三郎について語り合った部分がある。これに対して何人かのひとが北川(鮎川)批判をしている。それに答えているのが、この文章。
上手宰が北川と鮎川を「屍肉に群がるハイエナの饗宴」と呼んだ。これに対して、北川は書いている。
鮎川信夫やわたしを薄汚い歯をむき出しにしたハイエナにしたら気持ちがいいだろうが、同時にそんな比喩を使ったら、黒田三郎を屍肉や腐肉にしてしまうことにこの男は気づきもしないのだ。彼は鮎川やわたしをはずかしめているだけでなく、黒田三郎をも汚しているのである。(67ページ)
論理的だね。反論するとき(怒るとき)もなお論理を忘れないのが北川の文章の特徴かもしれない。
たしかに北川と鮎川を「ハイエナ」という比喩で批判するとき、黒田三郎が「屍肉、腐肉」という比喩になってしまうというのは、おかしい。ほんとうに黒田三郎に対する尊敬の気持ちがあるなら、そういう比喩は生まれない。
上手宰は、北川と鮎川を批判しようという気持ちが強すぎて、黒田に対する尊敬を忘れてしまったのだろう。
おもしろいのは、北川のこのあとのことばの展開。
怒っているとき、どんなに論理的(理性的)になろうとしても、怒りの方が論理を上回る。そうすると、どうなるか。論理が拡大され、ことばが暴走するというか、さらに先へと進んでゆく。(上手宰のことばも、そんなふうに読めないことはない。)
北川の場合は、こんなふうである。
それにこの男は知らないらしいが、日本語では、たった二匹のハイエナに対して、《群がる》とか《饗宴》ということばは使わない。もし《群がる》とか《饗宴》ということばを使えば、詩人会議を含めて、黒田三郎について追悼文や発言を寄せたすべての人のイメージになってしまう。(67-68ページ)
わっ、おもしろい、と私はうれしくなる。
ここでも北川は「論理」を守り通す。「論理」を踏み外さない。「群がる」「饗宴」というのは複数(少なくとも、二人では足りない)の行為である。その「複数」を根拠にすると、「ハイエナ」は北川、鮎川以外のひとの比喩にもなる。
これは、詭弁のたぐいかもしれない。
でも、それがいい。
上手宰は「日本語」の「意味」を間違えている、と指摘するだけではなく(「ハイエナ」の比喩は、上手宰が比喩のつかい方を間違えているのだが……)、その「間違ったつかい方」を拡大し、ことばの「射程」を広げることで、「間違い」をいっそう鮮明に指摘する。
そうか、ことばというのは、そこに使われているときだけに限って「意味」を判断するのではなく、そのことばを、そのことばのベクトルにしたがって拡大して見せるとき、問題点がよりはっきりするのか。
「論理」というのは、運動だから、その運動の延長線上をみなければならない。
北川は、そう考えているのだと思う。
そういう北川の「論理」の動きが見えるからおもしろい。
この場合「ことばの意味(定義)」を厳密に押さえる、「群がる」「饗宴」は何人の人間に対して使うか、というような視点の置きかたは、北川が文献を取り上げるとき、その時代を特定する姿勢に通じる。それはどういう状況もとに生まれてきたことばなのか、それを明確にした上で、そのことばのもっている運動領域(可能性/射程)をさぐる。そして、論理を動かすこと(北川の想像力で、その論理を引き継ぐこと)で見えてくる運動領域(射程)で、問題になっていることばを評価する。
北川の批評の姿勢の「根本」を見るような気がする。
(この文章は、書いたものを間違えて削除したために書き直した。最初に書いたときのものよりも、どうしても「飛躍」が多くなっている。--言い訳にすぎないけれど、書いておく。)
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