中井久夫訳カヴァフィスを読む(164)(未刊11) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(164)(未刊11)   2014年09月02日(火曜日)

 「人知れずこそ」は「不明瞭」な詩である。

現実の言動全部を集めても
かつての私の姿はうかがい知れぬ。
私の行動も生きかたもこれをゆがめる邪魔物があった。
ものを言おうとしかけたら邪魔物がよく口をふさいだ。
私のもっとも目だたぬ行動、
私のいっとうベールをかぶせた書き物、
--他に私をわかる手がかりはなかろう。

 「かつての私の姿」とはどんなものなのか、ここには書かれていない。何か言おうとしたら、何かが口をふさいだ。「邪魔物」とは「良識」かもしれない。「良識」に反することを「目だたぬ」ようにしてやってきた。しかし、「私」はことばを言わなかったが、ことばを書いた。「書き物」のなかに、「私」がベールをかけてきた(隠してきた)「私」がいる。
 男色とからめて読むと、男色とは知られないように行動してきた。しかし男色のことは詩のなかに書いてある。それが「私をわかる手がかり」になるだろう、ということか。
 しかし、ほんとうにベールがかけられているだろうか、カヴァフィスの詩には。そういうふうには思えない。むしろ、あからさま、むきだし、という感じがする。
 「口をふさぐ」と「書き物」の対比の方が私にはおもしろく感じられる。カヴァフィスは「声」に出して男色のことは言わない。「現実」のなかで、仲間ではない人間に対しては「声」をつかって男色のことは言わない。また、その世界でも「声」をつかってだれかを誘ったのではないかもしれない。「書き物」で、つまり「声」をつかわないことばで、自分の思いを伝えたのかもしれない。たとえば詩を書いて。
 そう思うと、カヴァフィスの「声(口調)」への執着、あるいは嗜好のようなもののきっかけが見えるような気がする。「声」に出したかった。でも出さなかった。そのかわり、「声」を聞きつづけた。「他人の声」のなかに「自分の声」を聞き、それを代弁させた。他人を(歴史を)書くふりをしながら、カヴァフィスは自分を語りつづけたと告白しているのかもしれない。

いや、私の真の姿など知る価値はない。
そんな関心努力にはおよばぬ。
後世、完全に近い社会に
私のそっくりさんが必ずあらわれて
自由奔放に行動する。

 その行動のなかで、カヴァフィスのことばはほんとうに解放される。カヴァフィスは自分のことばが、「他人」のなかで解放されて詩になることを知っていた。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社