「ユリアノスと神秘」は若いユリアノスが地下で「物の怪」に会う。思わず十字を切ると物の怪は消える。そして周りのギリシャ人に「奇蹟を見たか」という。「私が聖なる十字を切るのを見たら/魔はたちどころに消えたな」と。これに対してギリシャ人は笑った。そんなことを言うな。
わが栄光のギリシャの大御神々が
殿下のおん前に立ち現れたもうたのですぞ!
よしんば神々が立ち去りたもうたとしても
十字をこわがられてではありませぬ。
殿下があのいやしい野暮ったい印を
お切りになるのをごらんになられてのこと!
高貴な神の本性。当然嫌悪なされて
殿下をさげすみ 捨てなされたわけで」
ここにはソフィストの「詭弁」がある。そこで起きた現象については、どうとでも言える。「十字架を恐れて消えた」のかわりに「十字架を信じるやつを見捨てて立ち去った」と言い換えることは簡単だ。「理由(意味)」というのはいつでも自分の都合のいいように捏造できるのである。さらに、「理由」に「神はユリアノスを蔑んだ」ということばを追加することもできる。「理由」は、こういう侮蔑によって説得力を持つようになる。
ここまでなら詩の「声」はまっすぐでわかりやすいのだが、そのあとが難しい。
こう言われ このアホウは
ギリシャ人の涜聖のことばに説得されて
せっかくの祝福さるべき聖なる畏怖から立ちなおった。
「このアホウ」はだれが言ったことばなのか。ユリアノスを笑ったギリシャ人(ソフィストや哲学者)なのか。それとも詩人カヴァフィスなのか。
「ギリシャ人の涜聖のことば」があいまいである。儀式(?)をせずに、簡単に「神々」ということばを出し、またそのことば(理由)」が捏造だというのか。そういうことががギリシャの神々を冒涜しているというのか。
「せっかくの祝福さるべき聖なる畏怖」と「立ち直る」の関係も難しい。神を実感するときの畏怖、それを簡単に忘れてしまったというのか。
たぶん、宗教体験というのは「畏怖」を除いてはありえない。畏怖は常に感じなければならないのである。「涜聖のことばに説得され」るというのは、矛盾である。「聖なる畏怖から立ちなお」るというのも矛盾である。
ふたつの矛盾が、矛盾のまま放り出されて、ここに存在している。そして、そこに「アホウ」というような「口語」がそのまま動き輝いているのがおもしろい。これがカヴァフィスなのだ。矛盾と、その矛盾といっしょにある「声」のなまなましさが。
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