池井昌樹『冠雪富士』(42) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『冠雪富士』(42)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「封緘」は池井の「恥ずかしい思い出」。恥ずかしいけれど「どうしても書いておかなければならない。」そう書き出されている。「人生のとば口」に立たされていたときのことを書いている。どうすることもできなくなって、山本太郎の家を訪ねる。(山本太郎は池井を見出した天才である。)

私は呼び鈴を押したのだった。悲しげな、笑っているような、巨き
く見開かれたあの眼と、糺すでも、赦すでもない、どうした、とい
うあの一言に触れた途端、直ちに辞去すべき己に気付いたのだった
が、太郎さんはお仕事中の手で冷えた麦茶をポットから何度もグラ
スへ注いで下さり、私が話し終えた後も目を閉じて黙っておられる。

 その後、山本と池井のやりとり(八戸の村次郎を紹介するから、そこで働いてみろ、と言われて紹介状を書いてもらったというようなこと)が書かれているのだが、そこにもう一度いまの引用に似た部分がある。

                             封
書はこのまま村さんに渡すこと。きみが開いて読んではならぬ。い
いか。これまでにない厳しい表情で一息に言い終えてから、漸く破
顔されたのだった。何もかもお見通しのような、悲しげな、笑って
いるような、巨きく見開かれた何時もの眼だった。

 池井は結局、八戸には行かず、村次郎に会うこともなく、いまにいたっている。その間に山本太郎は亡くなり、村次郎も亡くなっている。

                       往きばを失った
紹介状は今も封緘されたまま私の手元に遺されてある。悲しげな、
笑っているような、巨きく見開かれた何時もの眼が、糺すでも、赦
すでもなく、今も黙って私を見ている。

 こんなふうに、山本太郎の眼は詩のなかで繰り返し描写される。「悲しげな」と「笑っているような」は流通言語では矛盾する。しかし、私たちはその矛盾する感情が同時に存在することを知っているので、その矛盾をそのまま受け入れて読む。矛盾があるから「意味」にとらわれずに、そこに書かれている「こと」のなか誘い込まれる。
 「糺す」でもなく「赦す」でもない。これも同じ。「糺す」と「赦す」は対立する。矛盾する。しかし、やはり、私たちは、それが矛盾であるからこそ「意味」を超えて、そこに「あること」が存在すると感じ、その「こと」に呑みこまれていく。誘い込まれていく。
 ことばにならない「真実」がそのとき、そこで「起こっている」。「真実」はあるのではなく、「生まれてくる」。「真実」というのは事件なのだ。事件が「起きる」という「こと」が「真実」なのだ。
 それを見つめる眼。巨きな眼--と池井は何度も書く。山本太郎は、池井にとっては「眼」だったのだろう。そして、その眼は「矛盾」している。「糺す」ということをしない。「赦す」ということもしない。「悲しむ」もしない。「笑う」もしない。むしろ、そういう「基準」をすべて捨てて、「事件」が起きるのを待っている。
 実際、このとき(池井が山本太郎に会ったとき)、事件は起きている。
 二番目の引用のあとに、次のことばがつづいている。

                       太郎さんはあの
夜、私を慰めも励ましもしなかった。太郎さんの前で、私はだから
愚痴ひとつこぼせなかった。愚痴をこぼそうとしていた自分が限り
なく恥ずかしかった。それは生まれて初めての、何処へも逃げ場の
ない恥ずかしさだった。その恥ずかしさを、何処へも逃げず、誰の
手も借りず、己独りで償うこと。太郎さんはあの夜、翔び立ち兼ね
て立ち竦んでいる雛の背を、静かに、しかし敢然と押して下さった
のだと思う。

 「事件」と私が呼ぶのは「恥ずかしさの自覚」である。「恥ずかしさ」は「正直」でもある。池井は、このとき「正直」を発見している。「正直」というのは、自分のなかにしかない。自分の「必然」のことだ。
 誰の手も借りない--ではなく、誰の手も借りることができない。他人の手は「必然」ではない。
 池井は「正直」の「必然」へと進むしかなくなった。
 池井はこのとき山本太郎を頼ってやってきたのだが、その頼ってやってきた池井を山本太郎は手放す。村次郎を紹介するという形で池井に応えているようだが、それは一種の「便宜」であって(あるいは方便であって)、山本太郎は、このとき池井を手放した。池井を「正直」へと押しやった。
 うーむ、と私は唸る。
 山本太郎は、池井の「正直」がいま生まれることを、瞬間的に見抜いていた。「必然」が動きだすのを見抜いていた。それは池井の「自立」ということだが、そうなることは山本にはうれしく、頼もしいことに思えるけれど、一方で寂しいと感じもしただろう。
 ひとはいつでも「独り」なのだ。
 山本太郎も、池井と同じように、その瞬間「独り」なった。そして、その「独り」のまま、池井を「独り」のなかへ押しやった。ただし、そうやって押しやって、手放しはするのだけれど、眼はしっかり池井を見つめている。

 池井を見つめる眼、池井を「必然」へ、「正直」へ追い込む(誘い込む)眼は、池井の詩のなかに何度も出てくるが、その中心にある「具体的な眼」が山本太郎の眼である。池井は、その目の前で、いつでも「恥ずかしい」。つまり、「正直」になる。裸になる。すべてをさらけだす。
 「師弟関係」ということばが正しいかどうかわからないが、これは強烈な「師弟関係」である。人を「正直」へ押しやる師は、最大の師である、と私は思う。
 池井は、その師が「今も黙って私(池井)を見ている」と実感している。







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