中井久夫訳カヴァフィスを読む(134) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(134)        

 「おまえにはわからなかった」は、翻訳がとてもおもしろい。いや、中井久夫の書いている「注釈」を読むと、翻訳の醍醐味がわかり、興奮するといえばいいのか。

からっぽのユリアノス。こんなことを言っている。
わしらの宗教信念にな。「読んだ。わかった。
却下した」とさ。あいつは思ったらしいんだ、
あいつの「却下」でわしらはすっかり凹んだと。救い難いロバめ。

あんな威しがわしらに利くか。こっちはキリスト者ぞ。
即刻返答。「読みはしたろうがわかっちゃおらぬ。
わかったら却下しなかったはずじゃ」

 中井は書いている。

「読んだ云々」は、「アネグノン、エグノン、カテグノン」という翻訳不能のことば遊びである。

 ふーん。では、どうして「読んだ。……」と訳したのか。ユリアノスとキリスト教徒との関係を思い描き、最後のキリスト教徒の返答から、逆に考えたのだ。
 キリスト教徒がユリアノスに何事かを訴えた。それに対してユリアノスは色よい返事をしなかった。聞き入れなかった。そればかりか、わけのわからないことばで嘲った。それにキリスト教徒は反論している。「ばか」(救い難いロバ)は、あいつの方だと。
 なぜなら、市民からの訴えを読んで、それが理解できたなら、ユリアノスはその訴えを聞き入れて何事かを改善するはずである。そういうことをしないのは、ユリアノスには、読んでも理解するだけの能力がない。きちんと応えるだけの言語能力がない。政治能力がない。だから、意味不明のことばではぐらかしている。
 意味不明のことばでごまかしたつもりだろうが、キリスト教徒には、そのでたらめなことばさえ、きちんと聞き取り「意味」を理解する能力がある。あれは「読んだ。わかった。却下した」と言ったのだ。
 中井はこのやりとりの活発な感情と頭脳のぶつかりあいをいきいきと再現している。「口語」をふんだんにつかい、ごまかしのない「意味」を再現している。
 「こんなことを言っている。」と倒置法でことばをはじめる。倒置法の文体は、最後までが長い。緊張がつづく。意識を散漫にしていると、何を言っているかわからなくなる。その緊張が終わった瞬間に(倒置法の文が完成した瞬間に)、「救い難いロバめ」と吐き捨てる。侮蔑をあからさまにする。
 最後の「理路整然としたことば」も文章語ではなく、口語で吐き出している。日常的に理路整然としているのはキリスト教徒である、と文体と口調でも表現していることになる。こういう訳は中井の独壇場という感じがする。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社