池井昌樹『冠雪富士』(33) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『冠雪富士』(33)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「星空」は「人事」と同じように「歌」である。同じことばを繰り返し、同じつもりが少しだけずれて行く。その「ずれ」をしっかり見つめると(「ずれ」にどっぷりつかっていると)、その瞬間に、とんでもない「遠く」とふいにつながってしまう。つろがろうとおもってつながるのではなく、無意識のうちに、本能としてつながってしまう。「いのち」がつながってしまう。

しんじられないことだけれども
こんなにむごいひとのよに
まだぼくをまつひとがいて
まだぼくをまつそのもとへ
はなうたまじり
かえってゆくが
ほんとはそんなひともなく
ほんとはそんなぼくもなく
こんなにむごいひとのよは
あかりしらじらまたたいて
ねこがよぎればそれきりの
あけくれかさねゆくばかり

 仕事が終わって家へ帰る。家には池井を待っている人がいる。それは「現実」である。「ほんとはそんなひともなく/ほんとはそんなぼくもなく」は「ほんと」と書かれているが「真実」ではない。
 そして「真実ではない」からこそ「真実である」。
 と書くと完全に「矛盾」だが、「矛盾」だからこそ、そこには「現実の真実」ではなく「詩の真実」がある。「詩の真実」はいつでも「矛盾」の形でしか書くことができない。まだことばになっていない、ことばとして流通していないことば、社会に生まれる前のことばが詩だからである。
 というのは、あまりに抽象的すぎるか……。

 この「矛盾」は、次のように言いなおされる。

そんなこのよのどこかしら
ぼくをなおまつひとがいて
ぼくをなおまつそのもとへ

 「家」ではなく「このよのどこかしら」に「ぼくをまつひと」がいる。それはだれなのかわからない。「どこ」にいるのかわからないのだから「だれ」かもわからない。そのとき「ぼく」もまた「だれ」かはわからない存在である。「池井」であることは間違いないが、その「池井」は「池井が意識している池井」ではないかもしれない。いや「池井が意識できない池井」である。このとき「意識できない」というのは「流通言語として説明できるようなことばにはならないことがら、未生の意識」ということである。
 池井は、この世の中には、どこかで、誰かが誰かを待っている。そういう「こと」があることだけを知っている。その「誰」はわからないし、「どこか」もわからない。わからないけれど、待っている「こと」だけはたしかである。なぜか。待っているという「こと」がなければ、池井は「かえってゆく」という「こと」ができない。池井は「かえってゆく」という「こと」をしている。そのとき、どこかで「池井を待っている」という「こと」が生まれはじめている。帰って行く「こと」で、池井は、待っているという「こと」を生み出している。
 そして、その「こと」のなかで、池井は生まれ変わる。また、その「こと」のなかで、待っているひとも生まれ変わる。

はなうたまじり
ひとりぼっちで
いつしかよるもふけまさり
しんじられないことだけれども
ほしぞらのようにまたたいて

 池井が生まれ変わり、待っているひとが生まれ変わる。その瞬間、そこでは「場」も生まれ変わる。それは「しんじられないこと」かもしれないけれど、信じてみればいい。そうすると、生まれ変わった「場」がはっきりと見える。

ほしぞらのようにまたたいて

 あ、これは正確に読むのがむずかしい。「ほしぞらのように」だから「比喩」なのだが、比喩とわかっていても、私は瞬間的に「星空」そのものを見てしまうし、またその「星空」が「またたいている」のも見てしまう。満天の星。それがまたたいる。輝いている。その輝きを見てしまう。

ほしぞらのようにまたたいて

 この行が、何を言おうとしているのか、それを「文章」として完成させることができない。「意味」がとれない。「意味」を無視して、星空を実感してしまう。
 誰かが自分を待っている--そう思って家へ帰るとき、その家がどこにあるのかも忘れて(意識することを忘れて、ということになるね)、ふと、満天の星の輝きを見る。あ、あそこが「家」だと思う。あの星が「ぼくをまっているひと」だと思う。そういう「錯覚」の幸福。

 詩は--「意味」を間違えていいのだ。「誤読」していいのだ。「意味」を正確に読まなくても、そこに書いてあることを正確に理解しなくても、そのことばを読んで何かが具体的に見えてくればそれでいい。
 何かが具体的に見えたとき、その具体的な「もの/こと」のなかで、私は詩人(池井)と一緒にいると感じる。つながっていると感じる。「ほしぞら」がはっきり見えたよ、と池井に言いたくなる--これは、そういう詩である。



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