「セラペイオンの祈祷師」。中井久夫の注釈によれば「セラピスは、エジプトの共通宗教をめざしてエジプトのギリシャ人王朝の第一代プトレマイオス一世『救世王』によって導入された神。」セラペイオンはプトレマイオス一世が建立し、「三九二年にテオドシウス皇帝が破壊するまで存続した」という。
キリストさま。イエスさま。私は考えでも言葉でも行いでも
あなたさまのいとも聖なる教会の戒律を遵守しておりまする。
あなたさまを否む輩はすべて斥けておりまする。
でも、今の私は父の追悼の思いでいっぱい。かなしいです。
私は悲しい。ああ、イエスさま、父が悲しい。
父は--ええ、口にするのも何でございますが
あの忌まわしいセラペイオスの神官でしたけれど。
息子は父を亡くして悲しい。同時に、父親の悲しさも実感している。父親はキリスト教徒ではなく、セラペイオンを信仰している。その父は死んだあとどうなるのだろうか。だれが父の冥福を祈るのか。そのときの宗教は何なのか。
ギリシャには、いつもこの問題が起きつづけたのか。カヴァフィスは、ことあるごとに史実を題材に、「現在(カヴァフィスの現在)」のなかに動いている「声(主観)」を引き上げてきてはことばにしている。
私は悲しい。ああ、イエスさま、父が悲しい。
一行のなかで、主語が「私」から「父」にかわる。しかし、用言は「悲しい」のまま、かわらない。「悲しい」という「こと/うごき」が二人を結びつける。「悲しい」のなかで二人は見分けがつかなくなる。
このとき、息子は「キリスト教徒」から「セラペイオン」の神のもとに帰っている。父と同じものを信仰し、父を悲しいと言っている。父の悲しさを実感している。
後天的に「学ぶ」宗教よりも、生まれたときから一緒にいる父の、その父とのつながりの方が、最後には重く響いてくるのだ。
これに先立つ一連目では、「父」は「お父さん」と書かれている。
やししかったお父さん。最後はうんとお爺さんだったけれど
かわらず私をいつくしんだお父さん。
父を悼む。今は亡きやさしかりし老いたる父を。
この「お父さん」と「父」とのつかいわけ、家庭内での「肉声」と社会的な場でのことば。「肉声」が排除された「形式」。私たちはいつでも「声」を否定されながら生きている。「声」の復活を求めて生きている。
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| コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス | |
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