「企て」は、「あぶない」人間と間違えられたときのことを書いている。
さんぐらすしているとはいえ
あぶないものではありません
ちかごろめっくりめがよわり
という1連目からはじまり、マスクをしているのは花粉症、頭陀袋をもっているのは昼の弁当のおむすびを入れているから、これから仕事に向かうところ……という具合に、いつものことばの調子で書かれている。
そのあとで、
それでもあぶないあやしいと
それほどいぶかしまれるなら
あなたへこっそりうちあける
ばすのつくまでのつかのまに
ほんとうは
こんなあぶないくわだてを
それがなにかはいえないけれど
ほんとうに
こんなあやしいたくらみを
たったいま
あなたへおめにかけましょう
ささやかなこのことのはで
「ことのは」でおめにかける「あやしいたくらみ」(あぶないたくらみ)とは詩のこと。「白洲」に書かれていた「あやしい」を引き継いでいる。でも、この詩を読む限りは、どこが「あやしい」のか、どこが「あぶない」のかはわからない。池井が自分で「あやしい(あぶない)」と言っているだけである。
わからなくていいのだ。
池井はいつでも「ほんとう」が「あやしい」「あぶない」ものだと知っている。その「ほんとう」につかまってまうと、逃げられない。池井そっくりの姿形、サングラスをかけてマスクをつけて、昼間は働き、夜は詩を書く--そういう60歳過ぎの男がしないようなことをひっそりとしなくてはならない。
この静かにことばのなかには、そういう「脅し」がこめられている。
その「脅し」を池井は「ささやか」と呼んでいる。
ささやかではあるかもしれないが、「共感」するなよ、共感すると取りかえしがつかなくなるぞ、池井になってしまうぞ、と私はつけくわえておきたい。
![]() | 谷川俊太郎の『こころ』を読む |
谷内 修三 | |
思潮社 |