池井昌樹『冠雪富士』(31) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『冠雪富士』(31)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「企て」は、「あぶない」人間と間違えられたときのことを書いている。

さんぐらすしているとはいえ
あぶないものではありません
ちかごろめっくりめがよわり

 という1連目からはじまり、マスクをしているのは花粉症、頭陀袋をもっているのは昼の弁当のおむすびを入れているから、これから仕事に向かうところ……という具合に、いつものことばの調子で書かれている。
 そのあとで、

それでもあぶないあやしいと
それほどいぶかしまれるなら
あなたへこっそりうちあける

ばすのつくまでのつかのまに
ほんとうは
こんなあぶないくわだてを

それがなにかはいえないけれど
ほんとうに
こんなあやしいたくらみを

たったいま
あなたへおめにかけましょう
ささやかなこのことのはで

 「ことのは」でおめにかける「あやしいたくらみ」(あぶないたくらみ)とは詩のこと。「白洲」に書かれていた「あやしい」を引き継いでいる。でも、この詩を読む限りは、どこが「あやしい」のか、どこが「あぶない」のかはわからない。池井が自分で「あやしい(あぶない)」と言っているだけである。
 わからなくていいのだ。
 池井はいつでも「ほんとう」が「あやしい」「あぶない」ものだと知っている。その「ほんとう」につかまってまうと、逃げられない。池井そっくりの姿形、サングラスをかけてマスクをつけて、昼間は働き、夜は詩を書く--そういう60歳過ぎの男がしないようなことをひっそりとしなくてはならない。
 この静かにことばのなかには、そういう「脅し」がこめられている。
 その「脅し」を池井は「ささやか」と呼んでいる。

 ささやかではあるかもしれないが、「共感」するなよ、共感すると取りかえしがつかなくなるぞ、池井になってしまうぞ、と私はつけくわえておきたい。
谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社