中井久夫訳カヴァフィスを読む(112) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(112)        2014年07月12日(土曜日)

 「時がふたりを変える前に」は、一風変わった声が響いている。男色の恋人との別れを描いている。

ふたりの別れは悲しかった。
別れたくなかった。
よんどころない別れだった。
そうじゃないか。片割れは稼ぎに。移民になるよりなかった。

 経済的な理由。ひとりはアメリカかカナダへ移民にいってしまう。悲劇である。書き出しの二行は悲しすぎてことばが思い浮かばないから、簡潔になってしまうのか。あるいはいつものカヴァフィスの修飾語嫌いが出ているだけなのか。
 おもしろいのは四行目の「そうじゃないか。」である。これはだれに言っているのだろうか。自分に言っているのか。相手に言っているのか。だれに対してであれ、ここには何か「言い訳」めいたものがある。「別れ」に理由が見つかって、それを押し通そうとする感じがする。

ふたりの愛は、そう、以前ほどではなかった。
引力が大いに弱まってはいた。
だが、さあ お別れとなると話は別だ。

 「話は別だ。」とはいいながら、「そう、」という途中に挿入された相槌(?)のようなことば。「弱まってはいた」の「は」という強調。そこには、「よんどころがない」とはいいながら、それを頼りにしているような、奇妙な「あきらめ」というか、執着心がない。「愛」というのは執着のことだと思うが、この詩には執着するという感情とは逆のものが動いている。執着を切り離す理性が動いている。どこか、ほっとしている。
 それが後半、別れを技巧的に美化する。「神の介入(配慮)」へとすりかえる。髪は次のように考えたのだ。

ふたりの気持ちが燃え尽きる前に、
時間がふたりを変える前に。
おたがいに いついつまでも
今のままの姿だと思い続けられるようにと、

 「時間がふたりを変える前に」には、すでに変わりはじめたふたりがいる。「完全に」変える前に、ということである。変わりはじめていなければ「変わる」ということばは出て来ない。
 理性(頭、脳)というものは、どんなことでも自分の都合のいいように論理をつくりだすものである。その冷たい理性の声が「主観」として、この作品に書かれている。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社