「絶望して」は男色の詩。三連から成り立っているが、書き出しはみな「あの子とはすっぱり切れた。」である。関係がなくなった。しかし、肉体の関係がなくなっても記憶は残る。「すっぱり切る」ことができない。これは自分に言い聞かせていることばだ。
あの子とはすっぱり切れた。彼はなんとかして
あの子の唇を手に入れようとした、新しい愛人を得るごとに、その唇から。
新しい愛人ごとに、新しい身体を抱くごとに、
ああ、これはあの子だ、と思おうとした。
私が今身体を埋めているのはあの子だと--。
一行目。「彼は」と書かれている。自分の体験を「第三者」に託して語ろうとしている。しかし、「新しい愛人」「新しい身体」と「新しい」を繰り返せば繰り返すほど、新しくないもの、古いものが記憶の奥から蘇る。まるで「肉体」の奥から理性を突き破って暴れ出る欲望のように。その欲望と向き合ってるうちに「彼」が「彼」ではなくなる。「彼」と客観的に書けなくなってしまう。「私」があられてしまう。中井久夫は主語を省略できる日本語の特性を生かして、二行目から四行目までは主語を書かず、五行目で「私」に巧みにすりかえている。
この「彼」は三連目に、もう一度復活してくる。
あの子とはすっぱり切れた。始めからないことみたいに。
彼はまぼろしを呼び出し、幻覚をかき立て、
ほかの若者の唇にあの子の唇を思おうとした。
もう一度あの子とのような愛欲を味わおうと、じれた。
だが、一度「私」が出てきてしまうと、もう「彼」は「彼」ではない。「私」としか読むことができない。カヴァフィスは、「あの子」(の唇)が忘れられないのなら、「私」を「彼」という第三者にして切り離そうとする。「あの子」がカヴァフィスを捨てたのだが、カヴァフィスが「私」を捨てることで、悲しみから立ち直ろうとする。
けれど、そんなことはできない。ひとは、だれも、自分自身の欲望から脱けだせない。それが、また詩人の救いでもある。あの子はあんなことを言ったけれど、結局この愛欲にもどってくると信じている。カヴァフィス自身がそうなのだ。それが二連目。
あの可愛い子が言った、ぬけでたい、この泥沼から、
この性の悦びの病みただれた、しみついた、けがれた形から。
この性の悦びの恥多い、汚れた形から
今ならまだ間に合う、ぬけだせると言いおった。
それは若い時代のカヴァフィス自身のことばなのだろう。でも、ぬけだせなかった。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
ヤニス・リッツォス | |
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