池井昌樹『冠雪富士』(13) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『冠雪富士』(13)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「内緒」にも母が出てくる。でも、この母は、少し変わっている。

いなかのいえのひだまりに
しんぶんがみひろげ
あつあつコロッケたべたっけ
かあちゃんと
くすくすわらってたべたっけ
まだかえらないとうちゃんや
じいちゃんばあちゃんいぬのコロ
みんなにないしょでたべたっけ
いなかのいえのひだまりに

 「かあちゃん」ということばで登場する。よそのひとの眼を意識していない。身内だけのときは「かあちゃん」と呼び、他人がいるときは「はは」と書く。そういう区別が池井のなかにはあるのだろう。ここでは、他人を気にしていない。
 なぜか。「内緒」の世界だからだ。母と二人だけ。だから「かあちゃん」と無防備なことばが出ている。
 そのコロッケは、たぶん買ってきたコロッケだろう。家でつくってもあつあつだが、つくったあとが残る。買ってくれば料理の痕跡がないから、だれにもわからない。父や祖父母にはわからない。その二人だけの秘密が「内緒」であり、二人だけだから、この「かあちゃん」は非常に濃密(?)だ。揚げたてのコロッケのように、池井の肉体にぴったり重なっている。この密着感、幸福感が「くすくすわらって」にあふれている。大笑いしてもだれにも聞かれないのだけれど、「くすくす」と笑う。それが何かを隠しているようで楽しい。「内緒」の「緒」は「一緒に」の「緒」。
 この幸福感には「たべる」という肉体が関係しているかもしれない。何かを一緒に食べるということは、その何かを共有することだ。コロッケを二人で食べるのだから、これは正確に考えると「分有」ということになるのだけれど、その食べられたはずの「コロッケ」が二人の肉体を「共有」するのか、それとも「食べる」という動詞を二人が「共有」するのかわからないが、「一緒に」何かをもっている感じがする。もしかすると、それは「コロッケ」でも「胃袋(口/肉体)」ではなく、「ひだまり」とか「あつあつ」という別なものとつながっているのかもしれない。
 この「もの」を超えて「共有」がはじまる瞬間に、ここでは「たべたっけ」という音の繰り返し、音楽が一緒にある。「コロッケ」と「たべたっけ」のなかにも共通する響き、音楽があり、それが歌になるので、楽しい。
 書いてある「情報」は母と一緒にコロッケを食べたということだけなのだが、繰り返し繰り返し読んでしまうのは、書いてあることを知りたいからではなく、そこに書いてある「音楽」を味わいたいからだ。
 この長調の明るい音楽が後半はがらりとかわる。

それからなにがあったのか
それからコロはいなくなり
そふぼもちちもいなくなり
ははをしせつへおいやって
いまはもぬけのからのいえ
いなかのいえのひだまりを
いまごろぼくはおもうのだ
あとかたもないこのぼくは
かあちゃんと

 「かあちゃん」は母に、とうちゃん、じいちゃん、ばあちゃんは祖父母にかわっている。そして、コロッケを食べたは消えて、かわりに「施設へ追いやる」がわりこんでくる。そのとき蘇るのは「いなかのいえのひだまり」。太陽が射してぽかぽか。あ、この「自然」は無慈悲にも変化しない。長調から短調へとかわることはない。その家にだれがいなくなっても、つづいていく変わらぬものがある。
 それが、変わってしまったものをいっそう強調する。
 その瞬間、

かあちゃん

 が再び蘇る。それは池井との「内緒」を知っている「かあちゃん」だが、その「かあちゃんと」何をするのか。この詩は書いていない。書けないのだ。蘇ってくる「かあちゃん」といういのちそのものに涙があふれ、それを整える時間がない。整えようとする「理性」を、感動がおしやってしまう。
 その瞬間、そこに、ぱっと、もう一度「いなかのいえのひだまり」が、内側から開くようにあらわれてくる。そして、そこにコロッケと新聞紙と、あつあつと、くすくすとがあらわれながら「内緒だよ」とささやく。
 かあちゃんが言ったのか、池井が言ったのか。二人で「内緒だよ」と「一緒に」言ったのだ。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社