「アカイア同盟のために闘った戦士に」は前半が「墓碑銘」である。後半の二連目で、その「墓碑銘」を書いたのはアレクサンドリア在住のアカイア人であると種明かしをしている。時代は、プトレマイオス・ラテュロスの時代である。古代である。
百戦百勝の敵なるをいささかも怖れず
気高く闘って倒れた不屈の諸君。
ディアイオス、クリトラオスの指揮のしくじりは
むろん諸君の罪ではない。
ギリシャの民の誇りがほとばしる時には
必ずや諸君を讃えて「これぞわが民族の子」というだろう。
この詩の注釈で、中井久夫は詩の書かれた年(一九二二年)を踏まえながら、セフェリスの説を紹介している。カヴァフィスの詩は古代を題材にしていても、そこに「現代性」を読み取ることができる。この詩にはギリシャ・トルコ戦争を読み取ることができるという。その証拠として中井は一九一四年から一九一八年にかけて若者の墓碑銘が集中的につくられていることをあげている。
この詩では、カヴァフィスが「アレクサンドリア在住の一アカイア人」になって、墓碑銘を書いている--セフェリスと中井はそう言うのである。そこには若者への愛があふれている。特に「ディアイオス、クリトラオスの指揮のしくじりは/むろん諸君の罪ではない。」という部分に。これは単に敗北が若者のせいではない、指揮官に責任があるというだけではない。若者、彼ら自身の死も若者のせいではないということだ。死にまさる「しくじり」はないが、それは若者よ、諸君のせいではない。
それに加えてカヴァフィスは讃える。自分に民族の誇りがあふれるとき、必ず若者たちを思い出す。そして、「これぞわが民族の子」と言う。「子」ということばのなかに、血が流れている。
これはまた、カヴァフィス自身が「私はわが民族の子である」と宣言しているということでもあると思う。
詩は、二行ずつでひとつの「文意」をつくり、「気高さ」を讃え、「無垢(無罪)」を証明し、「愛」を語る。この素早く、しかし確実な展開は、とても美しい。修飾語を拒んで書きつづけるカヴァフィスが、最小限のことばで若者を讃えるとき、その若者の短いいのちが強烈に輝く。
また、この詩は「葡萄酒大杯作者」とつながっている。「葡萄酒」では十年という年月が明確に書かれていたが、この詩でも期間こそ明記されていないが「長い年月」がある。その年月、時間の長さを忘れてはいけない。時間の長さ、時間を持続させるものとして「民族」がある。
時間とカヴァフィスのなかで凝縮したり拡大したりする。そうして立体的になる。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
ヤニス・リッツォス | |
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