池井昌樹『冠雪富士』(12) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『冠雪富士』(12)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「月」という詩の書き出しは「手の鳴るほうへ」と書き出しが同じである。詩の終わり方も似ている。同じ日に書いたのかもしれない。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ
でんわのむこうでいなかのははが
はははしせつへゆくことになり
それはきれいなおつきさま
のぞんでももうかなうまい

 この電話はいつのものだろう。施設に入る前の日の電話かもしれない。池井がかけたのか、母の方からかけてきたのか。母の方からかけてきたのだろう。月がほんとうにきれいだったからかけてきたのか、それとも思うことがあってかけてきたのだが、思うことをいわずに月がきれいと言っているのか。月がきれいと言えば、いいたかった思いは半分は伝わると思ったのか。
 池井は、そういうことを書いていない。書いていないから、読者はそれぞれ自分の母のことを思い出して、自分の母の姿を見る。私は、最後に書いた母の姿を想像した。言いたいことがある。けれど言ってしまえば息子の負担になる。だから、直接言わずに、間接的に何かを伝える。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ

 これは、きょう初めてのことばではなく、池井の母が何度も何度も池井に言ったのだろう。池井が母と一緒に暮らしていたと、池井は何度その「声」を聞いただろう。あるときは知らん顔をし、あるときは一緒にならんで見たのだろう。母は、月を見ながら、その「一緒」の時間を思い出している。もう一度、一緒の時間を持ちたくて、そう電話してきた。坂出と東京と離れていても、月を見るとき、「一緒」を楽しむことができる。同じ「月」を見るという時間をすごすことができる。
 でも、その「一緒」も、もうこれからは無理なのだ。

むすこはくるしくうしろめたく
いますぐいなかへかけもどりたく
さりとてもどるにもどられず
なにかてだてはないものか
だれにきいてもしのごのばかり
しのごのしのごのうやむやばかり
ふたおやかいごでかよいづめ
つまはかなしくめをふせて
ばんさくははやつきはてて
むすこはみじかいしをかいたのだ
ははとならんでいなかのいえで
つきをみあげるみじかいし
--それはちいさな
  まずしいつきを

 詩を書くことしかできない。詩を書くとき、池井は母と一緒に月を見ている。詩を書くことは、池井にとってはだれかと一緒にいることなのだ。だれかとつながっていることなのだ。つながることなのだ。大切な大切なだれかと。
 だから、
 と書くとかなり逸脱してしまうことになるかもしれないけれど。
 「むすこはすこしくるしくうしろめたく」と書きつないでいくとき、その「声」を坂出の母は聞いている。池井の苦悩を、そばにいて聞いている。そして「わかっているよ。わかっているから、それはいわなくていいよ。さあ、いっしょに月を見ようよ、きれいなおつきさまだよ」と言っている。
 その母を、ほんとうは書いているのだ。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ

 は、誘いのことばであると同時に、一種の「和解/諒解」のことばなのだ。
 おなじことばの詩を二度書かなければならなかったのは(あるいは、池井はさらに三度四度と書くかもしれないが)、そのことばのなかで母といっしょにならんで生きるためなのだ。

 きのう「兜蟹」について池井は「フィクション」を拒み「ほんとう」にこだわると書いたが、その理由はここにもある。だれかとつながっている、だれかと一緒にいるということは「ほんとう」のことである。それだけが「ほんとう」に値することである。そこに「間違い」が入り込んでしまうと「一緒」ということさえフィクションになってしまう。だから「兜蝦」ではなく「兜蟹」なんだ、とこだわる。「兜蝦」の方が、ふつうの読者(編集者)からみれば自然であっても、それは池井の体験した「ほんとう」とは違う。違うことを書くと、池井の「正直」は減ってしまう。その結果、大切なだれかと「一緒に」いるということに傷が入る。この「傷」が、池井は嫌いなのだ。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社