「葡萄酒大杯作者」に登場する銀の大杯に絵が描かれている。美青年が一糸まとわぬ姿で描かれていて、その片足が流れのなかにある。それを見ながら、
おお、思い出よ、ここで助けを。
私のむかし愛した顔かたちは大体こうだったね?
うーむ、弱った、このむつかしさ。
十年、そう、十年たった。あの子が兵士になって
マグネシアのたたかいで倒れてから。
一連の男色の詩のように読むことができる。描かれている青年の絵を見て、その顔を見て、昔の恋人を思い出している。しかし、その思い出は、ただ切ないだけではない。恋人とただわかれてのではない。彼は戦死したのだ。それも十年前に。
そう読んだあとで、とても気になることがある。
うーむ、弱った、このむつかしさ。
これは、どういうことだろう。
戦死した青年の顔を正確に思い出せない。「大体こうだったね」としか言えない。それは十年たったから。思い出すのが「むつかしい」のか……。
しかし、何度が指摘したことだが、何かを思い出すとき、時間の隔たりは重要なことがらではない。十年前も、一か月前も、きのうも、思い出すとき、その「思い出」は詩人のすぐそばにある。それは詩人が銀の大杯の絵を見て、すぐにその恋人を思い出したことからもわかる。思い出した瞬間、そこには「十年」という年月は消えているはず。
難しいのは、「十年前」の彼を思い出すことではない。「十年」という時間を十年として正確に「肉体」に記憶させることである。「十年」を忘れてはいけないのだ。「時間」の、「時」と「時」の、その「間」そのものを、意識しなくてはならない。その「間」に何があったのか。
別な言い方をすると、「あの子」が戦死したのは「十年前」。それから「十年」がたったのだが、ではその十年の「間」に何があったのか。死んだのは「あの子」だけなのか。そうではない。あの子以外にも、若者がたくさん死んだのだ。戦死したのだ。
その数えきれない若者の死がある。そういう若者の死を背景にして、「あの子」だけを取り出して、あの子の「顔かたちは大体こうだったね」と言うことが難しいのだ。
ここには、この詩を書いていた当時の背景、戦争が影響しているかもしれない。カヴァフィスはきっと多くの若者の死を見たのだ。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
ヤニス・リッツォス | |
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