「蜜柑色の家」は「地元公立高校入試にただ一人落第した私は隣町高松の私立高校へ通うことになった。」という一行から始まる。そのころの通学の思い出、三者面談のあと、高松駅前の食堂でラーメンと鉄火巻を食べたことなどが語られているのだが、その思い出にさらに過去の思い出が重なる。
ラーメンは幼い私を連れて母が、私を楯に、贔屓の
橋蔵映画を観た帰りに食べさせてくれた。丼の底の一滴まで綺麗に
啜った。鉄火巻は父が教えてくれた。買ってもらったばかりの自転
車で父と初めて遠乗りした折り、丸亀という街で食べた。この世に
こんな旨いものがあるのかと瞠目した。
ラーメンの味、鉄火巻の味を、「味覚」ではなく母と父の一緒の時間として描いている。父の方の描き方はあまり親身ではない(?)が、母に対する関する観察がとてもおもしろい。大川橋蔵が好きだったのか。チャンバラ映画を見たのか。池井は、母親に利用されているということを感じながら、それを楽しんでいたのか。「丼の底の一滴まで綺麗に啜った。」はラーメンの汁を啜るというよりも、母と一緒にいる時間そのものの濃密さを啜る感じがする。幸福はラーメンというよりも、母と一緒に、いつもとは違う場所にいて、違うことをしているという喜びの中にあるのかもしれない。
父と食べた鉄火巻も、もし、それが坂出の商店街のなかの店なら味が違っていただろう。いつもとは違う街、丸亀で食べたからおいしい。それは、父と、いつもとは違う場所に一緒にいるからだ。父の描き方が親身ではないと書いたけれど、池井はしっかりと「時間」そのものは書いている。
こういう思い出を書いているとき、池井のなかで「時制」はどうなっているのかなあ。
何かを思い出すとき、時間はどうなっているのだろう。
この詩の中には「ずいぶん遠くへきたもんだ」ということばが繰り返されているが、その「遠さ」がほんとうに「遠い」のではなく、とても「近い」。それが「近すぎる」ので、「いま」が何か異様に見える。ほんとうは「遠い」はずなのに、こんなに近くに、初めてラーメンを食べたときのこと、初めて鉄火巻を食べたときのことが、三者面談の日にラーメンをたべたこと、鉄火巻を食べたことと「一緒」になって動いている。
「遠い」思い出こそ、いちばん「近い」。
しかし、あれから、ラーメンと鉄火巻に充ち足りた私と訪問着姿の
若い母はどうしただろう。煮汁の出汁の匂いのする薄暗い駅舎の改
札を抜け、微かに潮鳴りを聞きながら、いまはないディーゼル列車
にゆられ、いまはない窓外を眺め、いまはない、ドコヘ帰っていっ
たのだろう。
「いまはない」は「いまは現実にはない」ということであって、その「ない」はほんとうに「ない」のではない。
いまはもうなにもかもことごとく喪われてしまったにも拘らず、
いまもなお、あの頃のまま、蜜柑色の陽に包まれた家。父の十三回
忌もすぎ、母が施設に入り、いまはもぬけのからの家。
あらゆるものは「いまもなお」、そこにある。「そこ」というのは、池井の「肉体」である。池井の肉体は「いまもなお」、池井が体験したことを覚えている。特に、母と一緒にした「こと」、父と一緒にした「こと」を忘れることができない。
そういうことを、池井は、何の工夫もなく(ひとを驚かして、何かを印象づけるということもなく)、ただ思い出す順にしたがって書いている。
この、池井のことばの、「どこに詩があるか」。
これに対する「答え」は難しい。
ずいぶん遠くへきたもんだ、心の片隅でそう思いながら。
思えば遠くへきたもんだ、熟と、そう思う。
「遠くへきたもんだ」と一緒に動いている動詞「思う」。そのなかに詩があるかもしれない。「遠い」ものを「いま/ここ」の近くに引き寄せる力、その思いのなかに。
思い出は、技巧もなしに書かれているので、池井がそれを真剣に思い出しているという感じの「強さ」はわかりにくいかもしれない。いや、それは「強い」ではないのだ。「強い」なら、読者にわかりやすい。「強い」ものはあざやかだから。
池井は「正直」に思い出している。
これが池井の詩の「わかりにくさ」である。
「正直」がなぜわかりにくいか。「正直」なひとが多すぎるからである。「正直」なひとにとって「正直」はあたりまえなので、あたりまえと「正直」の区別がつかない。それゆえに、驚かず、それゆえに、池井の詩を「現代詩っぽくない」「詩ではない」と感じてしまう。あったことを、あたりまえの調子のことばで書いている、と見える。
そういう「他人の(読者の)正直」にたどりつくところまで、池井のことばは動いている。ためしに自分でラーメンを最初に食べた記憶、鉄火巻を初めて食べたときの記憶を書いてみるといい。池井のようには書けない。こんな正直に、こんなにあたりまえのことを書くのはとても難しい。
ゆきあたりばったりに、嘘とはったりを書いている私には、この池井の「正直」は強烈に響いてくる。
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