「私は芸術にもたらした……」の書き出しはカヴァフィスの特徴をあらわしている。
ここに腰をおろして、すこしくは夢見心地。
感覚と欲望を「芸術」に加えたのはこの私だ。
二行目の「感覚と欲望」ということば。どういう感覚、欲望なのかは書かずにただ「感覚と欲望」と言う。カヴァフィスには、それがわかってる。感覚も欲望も「主観」にすぎないが、「主観」であるからこそ、説明がいらない。説明しても、他人にはわからない。自分にわかれば充分である。「感覚と欲望」のことを考えているということ、その「こと」さえ読者に伝わればいい。
「こと」を重視した、このさっぱりしたことばの強さ、スピードは、どうせ読者にはわからないという開き直りとも受け止められるが、私には「孤独」の美しさに見える。世間に背を向け、自分の世界を完結させて、充足している不思議な美しさがある。カヴァフィスは「弁明/釈明」をしない。起きている「こと」は書くが、「説明」はしない。
このあと、カヴァフィスは、「感覚と欲望」を語りなおしているが、抽象的で、こころの運動を「数学」で表現したもののように、さっぱりしている。ちっとも具体的なところがない。
ただかいま見られることしかなかったものを、
かんばせやからだの線のつかの間の動きを、
ついに成らざりし愛のおぼめく思い出を--。
具体的ではないのだけれど、カヴァフィスが「美」というものを「かいま見る」ことしかできないもの、「つかの間の動き」ととらえていることは、わかる。「かんばせやからだの線」はいつでも見ることができる。しかし、ある瞬間の、ある動き--それは瞬間的にしか見ることができない。それは次の瞬間には消えている。
そして、それが「感覚と欲望」というものだ。
カヴァフィスは「感覚」と「欲望」と書いているが、きっとそれは一つのもの、あるいは一つの「こと」かもしれない。二つにわけて表現すことはできない。そして、それが「融合したひとつのもの(こと)」であるからこそ、それを正直に書こうとすると「修飾語」が消えてしまう。それにふさわしい「修飾語」がない。だから、カヴァフィスは修飾語を拒否する。
で、この「一つ」をカヴァフィスは、もう一度言い換える。
わが身を今「芸術」にゆだねる。
「感覚と欲望」は「わが身」である。「付け加える」は「ゆだねる」だ。自分の意思ではない。「対象」に誘われるままに「感覚と欲望」が動いていくのに任せている。
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中井久夫の訳詩『リッツォス詩選集』が発行されます。
20年ぶりの訳詩の出版です。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
ヤニス・リッツォス | |
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