池井昌樹『冠雪富士』(4) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『冠雪富士』(4)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「手の鳴るほうへ」は、母を思い出す詩。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ
でんわのむこうでいなかのははが
むすこはははのとなりにすわり
それはきれいなおつきさま
かたをならべてみあげていたが

 ことばはすべてわかるが、状況はちょっとわかりにくい。いろいろなことを想像できる。田舎の母が「それはきれいなおつきさま/あんたも みてみ」と電話をかけてきた。その電話をとりながら、池井は「はははのとなりにすわり/それはきれいなおつきさま/かたをならべてみあげていた」ときのことを思い出したのか。いま、いっしょに肩を並べて座って月を見上げているわけではないだろう。
 そのことを、まるで「いま」のように思い出してしまうのは、それが池井にとって大切な思い出だからだ。母にとってもとても重要な思い出だ。だから、ついつい昔と同じ口調で「それはきれいなおつきさま/あんたも みてみ」と言う。
 ひとつのことば(声)のなかで、ふたりがいっしょになっている。
 けれど、現実は違う。

そんなうそならもうたくさん
としおいたははおきざりにして
むすこはこんやものんだくれ
ホームのベンチでよいつぶれ
ゆめみごこちできいている
おきゃくさん
さいごのでんしゃ でましたよ

 電話で話したことさえ「いま」ではない。でも、その電話で話した「いま」と、昔いっしょに月を見た「いま」がくっついて離れない。電話で話した「いま」さえも、昔いっしょに月を見た「いま」なのだ。「時」と「時」のあいだ、「時間」は消えて、「いま」だけが池井のとなりに肩を並べている。

 こんなことは、私がごちゃごちゃ書かなくても、読めばわかること。
 でも、どうして、それがわかるんだろう。
 ときどき思うのだが、「時」と「時」の「あいだ=時間」を忘れてしまうのは、池井の表記方法「ひらがな」と「七五調(五七調)」も関係しているかもしれない。「意味」「論理」をきっちりと整理する前に、ことば全体をながれる何かにのみこまれて、「意味」「論理」というものを忘れるのかもしれない。

 でも、それを「意味」「論理」を忘れ、「時間(時と時のあいだ)」を忘れ、「いま」がいつなのか、ここで書かれていることが「いつ」のことなのか忘れたとしても、忘れてはならないことばがある。

あんたも みてみ

 「あんたも」の「も」。この「も」の不思議な静かさ。「池井も」と意味は簡単だが、「も」のとなりにはだれがいる? 父や姉も見ている、だからあんた(池井)も見てみろ、なのか。そうかもしれないけれど、それよりも「私(母)は見ている」、だから「あんたも」なのだ。「も」は省略された「私(母)」を語っている。
 そして、その「省略」のなかには、日本語のリズムと同じように、長い時間をかけてつづいてきた愛がある。私(母)は月を見てきれいだと思う。だから、あんた(池井)も「一緒に」見ようよ、の「一緒に」という誘いかけがある。
 「も」のほんとうの「主役(主語?)」は、この「一緒に」かもしれないなあ。
 「一緒に」こそが、池井の詩では、いつも隠れているのかもしれない。省略されているのかもしれない。

 時と時の「あいだ」が消えるように、いつも何かが省略されている。省略されているけれど、それは存在しないわけではない。存在があまりにもなじみすぎていて、書く必要を感じない。省略されているのではなく、くっきりと存在している。
 時と時の「あいだ」は消えてなくなったようであっても、いつも存在しているのと同じように、人が人と結びつき、そのときできた「あいだ(関係/つながり)」は遠く離れてしまって消えたように感じるときでさえ、いつも存在していて、それが存在しているがゆえに、「あいだ」のなかに「一緒」があらわれる。「一緒」が母を引き寄せる。

やれやれまたか どっこいしょ
こしにてをあてみあげれば
それはきれいなおくいさま
むすこはひとりいずこへと
--あんよはじょうず
  てのなるほうへ

 引き寄せられた「母」はいつでも池井を見つめている。いつでも、どこでも、池井を見つめている視線がある。見守られていると感じる池井のかなしみ、切なさがある。うれしいから、かなしい。うれしいから、せつない。


眠れる旅人
池井 昌樹
思潮社