「アンナ・コムニニ」は長詩『アレクシアデス』に登場するアンナ・コムニニの描写に対するカヴァフィスの不満を書いている。夫が死んでしまって、王妃は「わが眼を涙の河にゆあみさせつつ/わが人生の波高きをなげき」という具合に描写しているのだが、
ほんとう? そうぉ? この権力亡者の女が?
あいつの問題にする悲しみはただ一つ、
自認しなくてもいいさ、この傲慢なギリシャ女の
身をよじらせる痛みとはこれ。
手練手管を尽くしたあげく
ついに玉座に手が届かずじまい。
ヨアネス、けしからぬ、あわやのきわに横取りしおって。
第三者の立場から「ほんとう? そうぉ? この権力亡者の女が?」とはじまって、それが客観的な見方ではなくなる。いつのまにかアンナ・コムニニのことばになってしまう。そのことばの動き、変化がおもしろい。
口語の力が大きいのだと思う。
「ほんとう? そうぉ?」というカヴァフィスの無防備な疑問。「この権力亡者の女」という強烈な批判、「あいつの問題にする悲しみはただ一つ」と冷徹に分析に向かう。冷徹ではあっても、それは慎重というのとはかなり違う。口語のスピードで、ぐいぐいと動く。動かしているうちに、カヴァフィスの声が、アンナ・コムニニの声になってしまう。そして、そのことばの「切り替わり」のスイッチのようなところに、
身をよじらせる痛みとはこれ。
「痛み」ということばが動くところが、とてもいい。
「悲しみ」というのは肉体に直接響いて来ないが、「痛み」は直接的だ。他人の悲しみよりも痛みの方が肉体を刺戟する。他人の痛みを感じた瞬間、それは自分の痛みになる。道に倒れて、誰かが腹を抱えて呻いていたら「腹が痛いのだ」と感じるように、「痛み」は「肉体」の「自他」を忘れさせる。自分の「痛み」を思い出して、他人を見て「腹が痛い」のだと思う。
で、「痛み」を通って、カヴァフィスはアンナ・コムニニになり、「横取りしおって」というような口語を動いてしまう。この口語の動きがなまなましい。強靱だ。
「けしからぬ」は人前でも言うだろうが、「横取りしおって」の「しおって」は王妃のような立場の人間が言うことばではない。しかし、人前では(公式には)言わないが、非公式の、つまり「こころの声」では、俗語まるだしになる。
口語、俗語によって、感情が共有されていく。中井久夫の訳は、こういう感情の共有を促す「俗語(口語)」のつかい方がとても巧みだ。読者の感情を煽るように動く。