新保啓「約束」は「時間」のことをぼんやり考えている。昔だれかが、時間のことはだれもが知っているけれど、語ろうとすると語れないというようなことを言った。逆に言えば、どんなふうに語っても「時間」の哲学から外れない、どんな語り方でも時間を語れるということかもしれない。
新保は、こんな具合。
つまみを押しても引いても
びくともしないので
今もトイレの時計の三分遅れが
続いている
ドアを開けて出る
三分前に戻る
そんなことはないのだけれど……そうであったらおもしろいね。何か失敗するたびにトイレに駆け込み、飛び出し、失敗をやりなおす。現実には不可能なのだけれど、トイレでぼんやり座って時間を過ごしている。トイレから出てきたら、トイレにいたこととは無関係に時間がある。この不思議な「ずれ」がおもしろい。「ずれ」があるんだと気づいている新保がおもしろい。
だからね、「算数」でいうと、ほんとうはこの「三分遅れ」は間違っている、なんていっても始まらない。トイレの時計が三分遅れているなら、トイレから出てきたら外の時計は三分先へ進んでいる。三分、新保はトイレで落としてきたことになる。新保の「肉体」はトイレにいた「三分遅れ」の時間を身につけいてるので「三分前に戻る」と錯覚するのだが、外の時間から言わせれば間違っている。
でも、こういう「間違い」が人間のおもしろいところだからね。間違いをとおしてしかつかみとれないものがある。詩なんて、そもそもが間違いなのだから、こういうことはどうでもよくて--じゃなくて、こういう間違いをどんどん突き進んでいけばいいのである。
間違いに気づかないまま、新保はつづけている。
親戚のおじいさんが
先日 午前一時七分に亡くなった
静かな時間だ
犬も猫もみんな寝ている
風が少し吹いて
木々の葉を揺らす程度に
この「一時七分」というのは「トイレの時計」、それとも「正常(?)な時計」の時間? トイレの時計なら、ほんとうは一時十分だね。その三分のずれを、新保は「静かな時間だ」と呼んでいるような気もする。人が死んで、それがつたわるまでの間の、空白の時間というようなことも考えるなあ。犬も猫も寝ている、風が少し吹いている、か。
一日の時間が伸びるなら
伸びた分をどうしよう
さあ、どうしよう。一日三分ずつ伸びたとしたら、伸びたことに気がつくかな?
きょうは病院へ予約に来た
予約は三十分刻み
診察はいつも一時間近く遅れる
だから窓の向こうの山ばかり見ている
この窓枠に取り込まれた稜線の手前を
泳ぐように
白衣の人が通り過ぎる
鳥の時間には空を飛び
無視の時間には葉裏で休み
雨が降ったら
傘を差して外出し
晴れたら海へ
決まった時間に港から
船が出る
「決まった時間」(たとえば「予約の時間」)がある一方、そういう時間の一点を指すのではない広がりのある時間がある。「診察する時間」「山を見ている時間」。これは「現在進行形」の時間だね。動くことでつながっている時間。山を見ているというのは動かないようであって、そのあいだに思いが動いているからね。動きは時間を生み出している。広げている。(動くことで時間を消費している、といえば「経済学」になってしまうけれど。)
この動くことでつくりだす時間、生み出す時間というのは「人間」だけのことではない。
鳥は空を飛ぶ、虫は葉裏で休む。そのときも、そこに「時間」がひろがっている。人間はそういう時間を無視するけれど、それは逆に言えば見落としているということかもしれない。そこには人間の知らない充実した時間があるかもしれない。時間の充実があるかもしれない。
時間というのは秒針が刻むものと人間の肉体(感情)が刻むものがある。
秒針が刻むもの、時計の時間はみんなに共有されているけれど、肉体の時間は個人個人のもの。人間の充実は個人のもの。--であるはずなんだけれど、ときどき、他人の充実に共感し、自分のものでもないのに「共有」してしまうことがある。一種の誤読なんだけれど。他方、秒針の時間を「共有」できず、遅刻するなんてこともあるが、ほっておこう。
詩を読んでいると、そして、その詩についてあれこれ思っていると、いまなら新保の思っていることを「共有」しているなあ、と感じる。「共有」の仕方が間違っているかもしれないけれど、そこに新保がいると感じる。触れている感じ。これが楽しい。
そうか、新保はぼんやり風景を見ながら鳥になったり虫になったりしているのか。あるいは港から出て行く船を想像したりするのか。「何分遅れ」とは言えないけれど、「いま/ここ」から逸脱して、ひとりだけの時間を生み出している瞬間だね。それを「共有」するのはほんとうに楽しい。
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