「テルモピュライ」とは古代ギリシャの戦場のよう。中井久夫は注釈を書いているが、私はギリシャのことを知らないので、よくのみこめない。斥候エフィアルテスの裏切りによって、スパルタ兵は「テルモピュライ」で全員戦死したという。
いっそうたたえられよ、見通しつつも踏み留まる者。
ついにはエフィアルテスのたぐいが出て
結局ペルシャ兵が戦線を突破すると
見通しつつ持ち場をすてぬ者がけっこういる。
負ける、とわかっていても逃げない者がいる、ということ。「踏み留まる」「持ち場をすてぬ」とことばをかえてあらわれる兵。その兵を「けっこういる」と言う。この「けっこう」が、なつかしいような、うれしい気持ちにさせる。
「相当」という意味だと思う。
しかし、どこか「申しぶんない」という感じではないのだが、何かしらの「満足」がどこかに隠れているなあ、と思う。「あ、おれもその手の口だよ」という感じだ。「おれも」の「も」が「けっこう」なのだと感じる。「連帯」が生み出す安心感といえるかもしれない。
詩の引用が前後するのが、
金持ちならば 気前よく
そうでなくてもそれなりに気前よく、
できるだけ人だすけをして
といういうときの「それなりに」の不思議なつながり。むりをしないで、けれどもちょっと背伸びをして、なのかもしれない。あるいは、ちょっと「いいかっこう」をして、ということにもなるかな?
そして、ここに「人だすけ」という日本語。その「人」は意味としては「他人」だけれど、むしろ、「自分」に近い。情けはひとのためならず、の「ひと」。自分に帰ってくる「ひと」。「人だすけ」というのは「他人」を助けているのではなく「自分」を助けている。「人」のなかに「自分」がいる。
負けるとわかっていても逃げない「人」のなかに自分がいる。その「人」と踏み止まる。それは「自分」を発見すること、でもあるのかな? ようやく「自分」をみつけたから、その自分から逃げるわけには行かず、踏み止まるのだ。連帯をみつけ、連帯にとどまる。「戦友」ということばをふいに思い出した。
カヴァフィスの詩は史実を書いても、その事件を歴史のなかで位置づけるというよりも、その事件を生きた人間の肉体と感情に還元して、人間そのものを動かす。中井の訳は、その人間の思った「こと」を、その場で生きている「肉声」で再現している。