中井久夫訳カヴァフィスを読む(2) | 詩はどこにあるか

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カヴァフィスを読む(2)               

 「老人」はカフェの片隅で机にうつぶせになって居眠りしている老人を描いている。

老人は思う、強く賢く見目よかった時を、
楽しまずに過ごした歳月の多くを。

 「見目よかった」という言い回しに、私は「老人」の本質を感じる。「美しかった」「美男子だった」では、何かが欠けている。「肉感的」な感じが欠けてしまう。「見目よかった」には見る/見られるという往復する運動がある。見られることによって、見られていることを意識することによって、見られているものが美しくなっていくような響きがある。目の、肉体の動きがある。それが生々しく、私の肉体に響いてくる。
 「美しかった」「美男子だった」では、そのことばは「頭」のなかで「論理」として整然と動く。しかし、「見目よかった」は視線の交錯を感じさせる。
 こういう肉体の感覚を思うとき、あ、これは男色の詩だなと感じる。

「分別」が自分を愚弄した。老人は思う、
バカだった。いつも信じた あのごまかし。
「明日しよう。時間はまだたっぷり。」

思い出す。衝動に口輪をはめた。喜びを犠牲にした。
失ったせっかくの機会がかわるがわる現れて
今あざわらう、老人の意味なかった分別を。

 「分別」ゆえに男色に手を出さなかった。喜びを犠牲にした。あのときああすればよかった、と後悔している。その後悔の、「明日しよう。時間はまだたっぷり。」が非常になまなましい。分別というような、はっきりした「意味」を超えるなまなましさがある。
 なぜだろう。
 「時間はまだたっぷり。」という表現のなかに秘密がある、と私は思う。この一文は、きちんとした文章にすると「時間はまだたっぷりある」になると思う。「ある」という動詞が省略されている。そのために、なまなましくなる。「ある」という表現をつかわなくても、老人(若い時代の彼)には「ある」はわかりきっている。わかりきっているので「ことば」にする必要がなかった。
 「時間」とか「分別」ということばは、それをことばにしないかぎり何をさしているかわからない。しかし、「時間がたっぷり。」と書くとき(言うとき)、それが「ある」ということは老人にはわかりいっていた。「頭」でわかっているというより、「肉体(頭以外の感覚)」でわかっていた。
 この若い肉体感覚を、中井久夫は「ある」を省略することで、なまなましく再現する。「見目よかった」と作用し合って、「肉体」が輝いている姿がそこに浮かび上がる。
カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房