タケイ・リエ「山鳥」は、不思議な気持ちになる。
「猟犬をたくさん放して、ひよりが良くなったら山鳥を撃ちに行こうよ」
からだからいっせいに猟犬を放ってそれが
弾丸に変わってゆくときのきもちよさが
あなたにもわかるだろうと言われてもわからないのです
わたしはどちらかといえば山鳥なのでわからないのです
撃ち落とした山鳥から内臓をずるずるずるずる引き出して
猟犬に食わせることなどなんでもないとあなたは言います
でもわたしはどちらかといえば山鳥なのでとうてい賛成できない
百舌鳥がはやにえのショウリョウバッタを食べそこねては死ねないように
ここには「あなた」と「わたし」がいる。でも、その「あなた」と「わたし」は明確に違うのだろうか。
1行目は書き方が違っている。カギ括弧のなかに「あなた」のことばが入っている。独立している。ところが2連目からは「あなた」の言ったことばは「と言われても」「とあなたは言います」ということばのなかに組み込まれてしまっている。「わたし」のことばと接続している。
切断しているのはと「と」ということばと「言う」と動詞。しかし、その「と」と「言う」は同時に「接続」でもある。「と/言う」は「切断」しながら「「接続」している。--あ、これは今書いたばかりのことの繰り返しか……。何か、ごちゃごちゃしてきたなあ。矛盾したことを書いているなあ。
矛盾のなかには、大事なことがからみあっている。そのからみあいが、ごちゃごちゃ。だから、ごちゃごちゃを言いなおそう。
「切断」と「接続」がごちごちゃになるのには理由がある。
「切断」と「接続」のキーワードとなる動詞は、「言われる」「言う」という形で変化しているが、このとき変化しているのは「動詞」だけではない。「主語」が変化している。「わたしは・言われます」「あなたは・言います」。「主語」がすりかわって、動詞の活用を変化させてしまっている。
こういうことは無意識におこなわれることなのだろうけれど、無意識だからこそ、そこに詩人の本質のようなもの(この詩の本質のようなもの)が浮かび上がる。
だれかのことばを聞く。そこには「話者」の「思い」があるのだけれど、それを自分のことばで反復するとき、自分の「思い」が紛れ込む。
紛れ込んで。
最初は「わからないのです」と反発するのだけれど--これは、ほんとうに反発? もし絶対にいやなことならことばを反復などしないかもしれない。ていねいに反復してしまうのは、そこに何かしら惹きつけられるものがあるからかもしれない。
あるいは、「あなた」は「わたし」が「わからない」という形で拒絶する、その拒絶をみたくて、わざとそんなことを言ったのかもしれない。そういう「かけひき」のようなものが、「あなた」のことばのなかにはないだろうか。(こういう「かけひき」が成り立つのは、「わたし」と「あなた」がある程度ねんごろなときである。)そういうことを「わたし(タケイ)」は感じ取ってはいないだろうか。つまり、反発しながらも(切断しようとしながらも)、反発(切断)より先に、何かが「接続」していないだろうか。「肉体」の「接続」がありはしないだろうか。
タケイがどう感じたかは無視して、私は「あなた」の言っていることがとてもおもしろく感じられる。とても「肉感的」に感じられる。私はタケイも知らなければ、当然タケイの「あなた」も知らないのだが、「あなた」のことばから「肉体」の「誘い」を感じてしまう。「からだ」という表現があるからだけではない。
「からだからいっせいに猟犬を放ってそれが/弾丸に変わってゆく」というのは、時系列が錯乱しているように感じられる。銃を撃つ。弾丸が飛び出す。山鳥が落ちる。それをみて猟犬が走りだす--というのが時系列かもしれないが、そういうことを繰り返しているとだんだん時系列の間隔がつまってきて、すべてが同時に起き、同時に起きることは順序が逆になっても違いはないような感じになる。そこに一種の陶酔感がある。それは「きもちよさ」に通じるのだと思う。この陶酔感にとっては時系列の切断と接続の順序はどうでもいい。どんな順序でおきようと、かまわない。
これが、なぜか「わかる」。わかってしまうので「わからない」と言うことで自分の感覚を守ろうとする。「あなた」から「わたし」を引き離して(切断して)、自分を守ろうとする。
でもね、「と言われて」「と言います」ということばで「接続」してしまったのは、タケイの方なのである。「接続」してしまったら、もう、その「接続」を生きるしかない。「賛成できない」というのは「ことば」の表面的な「意味」であり、「ことばの肉体」は「あなたのことば」とセックスしてしまっている。同じ方向へむかって動きはじめている。
この官能(ことばの肉体のよろこび)が、不思議な長さの、ひらがなが多くて「ずるずるずる」としか感じのなかで動く。
そして、最終連。(途中は省略。)
山ふかく走る猟犬たちの目がキラキラしている昼下がりに
しろいけむりがいくすじも流れてくるのをじっと見ている
春よりもあたたかい血のにおいがずっと消えないことを知って
うれしいようなうらめしいような気になるのはどうしてだろう
「うれしい」と「うらめしい」が同列(区別のつかないもの)になる。「あなた」と「わたし」の区別がつかないように。初めての体位でセックスし、それが思いもかけないよろこびをうみだしたとき、それがうれしいような、うらめしいような、というのに似ているかな?そういう「記憶」(体でおぼえたこと)は、ずっと消えない。
セックスのことなどどこにも書いていないのだけれど、ことばの動きが、セックスを感じさせるなあ。
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