劉暁波はいろいろな詩を書いているが、私は、抒情的な作品も多い。たとえば「リルケを読む」。
リルケの「秋の日」は
僕が君に読んであげた最初の詩
読み終わったとき一本の針が
永遠に僕の血管に残った
それは時々鋭い痛みを感じさせる
もし時間が経って
針先が鈍くなったら
僕はこの詩を探し出し
ふたたび針先を尖らせねばならない
そうすれば再び鋭い痛みがもどってきて
石は永遠に血を流させる
抒情詩を読む度に私は、抒情詩は論理的だと感じる。この詩で言えば、2連目。「ふたたび針先を尖らせねばならない/そうすれば再び鋭い痛みがもどってきて」という2行をつなぐ「そうすれば」。論理によって世界がつながっていく。そして、その論理が明らかにするのは「鋭い痛み」。自分の確認。痛みによって、自己存在を確認する。そういう方向にことばが論理的に動くと、その詩は「抒情的」に感じられる。
で、私は、ときどきこういう構造に文句をつけなくなる。不満をいいたくなる。なぜ、自己の痛みしか、自己確認の手がかりとならないのだろうか。「我敗北する、ゆえに我あり」と言っているような感じがするのである。それでは「革命」は起りようがない。
とはいうものの。
読み終わったとき一本の針が
永遠に僕の血管に残った
こういう具体的な肉体と「もの」の、血管と針のような描写は、そういう不満を消し去る。と書くと順序は逆で、血管と針のことばに私は感動し、2連目に進んで、そこに「論理」が出てきたことに不満を感じたというのが正しいのだが……。
どうして、こんなことになったのかなあ。
もし時間が経って
針先が鈍くなったら
僕はこの詩を探し出し
ふたたび針先を尖らせねばならない
ここが少し奇妙だ。読むと、その論理はわかるのだが、どうも違和感がある。それはどこからきているかというと、「針先が鈍くなったら」という仮定のたて方が「論理」を優先していて「肉体」の実感を反映していないように感じる。
そこには「もしも痛みを感じなくなったら」ということばが省略されている。「針先が鈍くなったら」ではなく「痛みを感じなくなったら」。
もし時間が経って
血管が痛みを感じなくなったら
僕はこの詩を探し出し
ふたたび尖った針を血管に差し込まなければならない
血管はもともと詩人のもの。けれど針は詩人のものではなくリルケのもの。リルケのことばが針先であり、それは血管のなかにあったものではない。だから、血管の中の針をことばで研ぎだす(尖らせる)というのは、何か違うと感じる。論理と悲しみ(苦悩?)が入り交じり、悲しみによって論理を都合のいいように(?)--悲しみにふさわしいようにかえていないか。
言い換えると。
論理的なのだけれど、論理的でもない。劉暁波のなかだけで論理的、という感じがする。個人だけの酔った論理が抒情詩なのか。私の読み違いかもしれないが、ここに抒情詩のむずかしい問題があると思う。悲しみ(悲劇)は多くのひとの共感を呼びやすい。だが、共感を呼ぶために悲劇が演出される(論理で組み立てられる)としたら、いやだなあ。
論理はいつでも権力に従属する。劉暁波の抒情詩には、敗北という名の権力が隠れていないか。正しいのに敗北した。だから私は支持されるべきである、という「論理」が抒情詩という形で動いていないか。
--まあ、これは、私の意地悪な見方かもしれないけれど、私は「敗北の抒情詩」を読むと、ついつい警戒したくなる。なせだかわからないが、一種の本能のようなものかなあ。
で。
リルケよ君は知らない
あなたが今ここにいたらどんな気持ちかを
秋の果実は
酒を飲んで酔いから覚め冷静さを取り戻したとき
落ち葉が舞い散るように
あなたの今にも閉じそうな霊魂に飛びこむ
孤独は秋の日の成熟の裏にかくされている
うーん、何のために針先を尖らせたのかな? 血管はほんとうに痛みを感じているのかな? リルケの知っている痛み以上のものを自分は知っている。リルケにはその痛みには耐えられないだろうと言っているのかな? 今ここにいたら、リルケの書いた痛みはもっと鋭いものになっているだろうと言っているのかな?
2連目の「論理」が「論理」を要求してきて、困る。
以上は「一」の部分。「二」にもどきどきするような部分かある。
リルケの「豹」は
僕が君に読んであげた二番目の詩
純粋な金属の棒に
緑錆を生じさせ
僕の心臓を踏みつぶす
錆と血を混ぜあわせたものが
僕の体の中に流れる
鉄錆のにおいが
毛細血管からも漏れ出してくる
ここで終わればいいんだけれどなあ、と思った。
詩は、好きなところだけを読めばそれでいいのだろうけれど。私とときどき妙なことが気になる。
たぶん、この作品が劉暁波ではなく、無名の(?)ひとりの男が書いた詩だったら、私は感動していたと思う。ノーベル平和賞受賞者だから、なんとなく警戒して読んでしまう。著名人だからそのことばを信じるのではなく、著名人だからこそ、そのことばの奥にあるものをじっくりと見てみたい。だから、あえて「意地悪」な態度で向き合ってみた。
*
悲劇を目撃したとき、ひとは誰でも悲劇の主人公に同情(共感)する。その悲しみを自分のものと感じる。それはとても大切なことであり、たぶん、多くの人間的行動はそこから始まる。悲しみにより添わない行動は、どこかに間違いを含んでいる。--のだけれど、ある行動が悲劇になってしまったのはなぜなのか、悲劇を回避しながらとれる行動はないのか。そういう「ずるい」視点を探しておかないと、その悲劇を共有し、同じ体験に身を捧げない人間は間違っている、という批判が起きそうで、私はなんだか警戒してしまう。多くの歴史が流血の悲劇、個人的な献身によって切り開かれているということは知っているが……。
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