吉本洋子「活ける」 | 詩はどこにあるか

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吉本洋子「活ける」(現代詩講座@リードカフェ、2014年01月22日)

 吉本洋子「活ける」は相互評で好評だった。どれくらい好評かというと、「好き」「おもしろい」「吉本さんの世界」というような単発の声が出るだけで、あとがつづかない。「ここがきらい」「ここがわからない」というような批判がでない。こういうことはよくある。
 その作品。

伸びつづける根を見ている

怠けつづけた庭仕事のつけが回って
敷き詰めた煉瓦の下からどくだみの根
みつばの根
なまえを知らない草の根
訳のわからない根っこが蔓延って
庭からせめて来る

三日前にベランダへ這いのぼり
二日前には台所に乱入
昨日はリビングにまで触手がのびて
家族のひとりが絡め捕られた
あわてて裏口から庭にまわり
一番太い蔓を引っ張ってみた

日焼けもしてない生白い蔓が
なつく様に添ってくる
眼もない耳もついていない白子の蚯蚓
あんたなんかになつかれても困る
邪険に振り払って近所の便利屋を呼びつけた
根こそぎ引っこ抜けと迫る私に

こりゃあいけませんや通し柱に巻き付いて
金輪際離れるもんじゃあありませんぜと
ハードボイルドに決めて帰って行った

それなら私も覚悟を決めて
花鋏片手に風情を生かして付き合うわ
絡め取られた柱を真として
しんそえたいは不等辺三角形
無駄な枝は情け容赦なく切り落とし
風の通り道はさりげなく

足もとはきりりとしめるのが流儀だけど
ついつい片足に力がはいる
少し傾きかけた背景は
非対称の妙味とでも呼んで
あんばらんすであんふぇあー
家族の重力とリンクしているね

明日
どくどく呼吸しながら伸びている根を
さすり擦り見ている

 唯一、具体的な(?)感想は4連目、「あんたなんかになつかれても困る」という行がおもしろい、という指摘である。ほかのことばが出てこない。
 うーん、困った。
 いや、私もこの日はことばがあまり出なかったのだが。私は基本的に参加者の発言を拡大していくという形で話を進めるのだが、この日は参加者も少なく、いろいろな声が出なくて、ちょっと戸惑ったのだが……。

 でも、書いてみよう。同人誌や詩集で作品を読んだときのように書いてみよう。私はだいたい詩を読んで、3行くらいメモがとれるとその作品について10枚くらいの文章を書く。(引用があるので私自身の文章は少ないが……)。
 私がぐいと引きつけられたのも、4連目である。参加者が指摘した行と、その直前の、

なつく様に添ってくる

 この行に読みながら傍線を引いた。2行に共通するのは「なつく」ということばである。これは、どういう意味か。参加者に質問すべきだったなあ。「なつく」というようなことばはいつも口にしているし、なついている、なついていないというようなことは何にでも感じることなので、いざ定義(?)しようとすると難しい。わかりきっているので、別のことばで言いなおすことが難しい。
 簡単に言いなおすと、なれた感じ、べたべたした感じ、まあ感情の距離感がない感じなんだろうなあ。感情に距離感がなくて、それがそのまま肉体の距離感のなさにつながる。隔てるものがなくて、くっついた感じ。「なれ」+「つく(くっつく)」=なつく、という感じかな。
 なぜ、これがそんなに印象的なことば、詩のことばになって迫ってくるのだろう。
 詩に圧倒されて、そのときは思いつけなかった質問をしてみよう。架空の「質疑応答」をしてみよう。

<質問>4連目の「なつく」ということば、詩のなかのほかのことばで言いなおすと、どうなるかな?
<受講生>?
<質問>大事なことばは、たいてい言いなおされる。何を言いなおしたものだろう。なついたものがすることは? たとえばなついた犬や猫はどうする?
<受講生>すりよってくる。
<質問>似たことばはない? 植物が「すりよる」というのは、どういう姿で?
<受講生>這いのぼる?
<質問>ほかには?
<受講生>触手がのびる。
<質問>すりよられるとうるさい感じがするときがあるね。そういうときに似たことばは?
<受講生>からまる?

 だんだん、書いていることがつながってきたね。吉本は1連目で「蔓延って」ということばをつかっているが、これを吉本は「からまって」と読んだ。蔓が伸びて、伸びた蔓はからむ。
 何かが自分に近づいてきたとき、そしてこそに悪意を感じないとき、たぶん、ひとはそれを「なつく」という。めんどうくさいとき「からまれた」というね。「なつく」と「からむ」は親類みたいだ。というか、受け取り方次第というか……。

<質問>では、悪意が感じられたとどういうだろうか。
<受講生>攻撃する、攻めてくる。

 ほら、ますます詩のことばの「連絡」が見えてきた。
 雑草(吉本にとって好ましくないもの)が庭にどんどんはびこる。増殖する。根っこは土のなかで見えない手をのばし、家へ家へと攻めてくる。家の中まで入ってくる。「家族のひとりが絡め捕られた」というのは比喩だけれど、まるで人間にまで絡みついてくるような勢いである、ということだろう。
 この攻撃を、簡単に雑草の暴力といわないところが、この詩のポイント。「思想」である。
 この攻撃を、吉本は「からむ」と同時に「なつく」とも呼んでいる。
 「なつく」というのは、でも、一般的に「攻撃」ではない。愛情の表現である。でもねほら、愛情の表現というのはいつもいつもうれしいものではないね。めんどうくさいときがあるね。いちいちつきあいたくない。もう少しさばさばしたら?
 恋愛の初期でもそういうことはあるだろうけれど、夫婦生活が長くなると、べたべたも考えよう。「夫、元気で留守がいい」なんていう言いぐさもある。
 4連目の「あんたなんかになつかれても困る」の「あんた」は「白子の蚯蚓」、つまり雑草のはびこった根なのだけれど、そういうものを「あんた」と呼ぶところに、ふっと連れ合いの「あんた」が重なってくるね。
 雑草のことを書いているのに、なぜか、夫婦関係のようなものが、重なるように侵入してくる。雑草が夫婦関係に侵略されている。混じりあって、ごちゃごちゃ。
 雑草と連れ合いが、「あんた」と「なつく」ということばのなかで手を組んで吉本に迫ってくる。参加者のひとりが端的に指摘したように、この行がこの詩のいちばんおもしろいところ、読み落としてはいけないところだね。

 さて、どうしよう。きっぱりと別れてしまおうか。完全に処理してしまう方法はないものだろうか。
 いやいや、

こりゃあいけませんや通し柱に巻き付いて
金輪際離れるもんじゃあありませんぜ

 これは蔓草のことであるようで、一緒に暮らしている連れ合いの比喩のようでもある。切り離せない。切り離すと大黒柱(通し柱)を欠いてしまう。それでは家が壊れる。
 しようがない。

それなら私も覚悟を決めて
花鋏片手に風情を生かして付き合うわ

 覚悟を決めて付き合いをつづけ、その「付き合い」に生け花をするように「風情」を盛り込んでいくしかない。
 このあたり、雑草と連れ合いの比喩が融合してしまっている。雑草のことを書いているふりをして、連れ合いへの対処法を書いている。ときには「情け容赦なく」、でもそればっかりおしとおすわけにもいかないので、「あんばらんすであんふぇあー」。まあ、「なついている」人には理解してもらえる(強要してもらえる)範囲で工夫を凝らすということだろうねえ。

 実際に吉本が何をしたかはわからない。そのときに吉本が感じたことのすべてがわかるわけではない。
 でも、吉本は庭にはびこった雑草の処理に困ったとき、まるで連れ合いみたいになついてくるなあ(からんでくるなあ)と感じたんだろうなあ、連れ合いを思い出したんだろうなあということはわかる。そして、連れ合いに向き合うときも、雑草に向き合うときのように時に容赦なく、時にバランスを考えて……というような行動がわかる。
 あ、この「わかる」はほんとうに「わかる」というのではなく、勝手に想像できるということだけれど。
 これがおもしろいのだ。
 ひとは他人を勝手に想像する。そして、その想像というのは、実は自分の「肉体」の反映というか、自分の姿を映したものなんだけれど。他人の姿を笑うということは、自分のあれこれを棚に上げて、自分じゃないみたいにして笑うことなんだけれど--そういうことをとおして、ひととひとは交流する。互いを「わかる」。

 最終連もいいなあ。

明日

 そうなんだ。この仕事は「きょう」で完結するのではない。明日も同じようにつづいている。それが「わかる」。人間はかわりようがない。雑草よりもかわらない。

 きょうの復習(?)。おさらい。
 印象的なことば(キーワード)は、ほかのことばで言い換えられている。言い換えられていることばを少しずつ追っていくと、そのことばのなかにほかのものがまじってくる。比喩で振り分けたつ,もりでも、比喩なので振り分けても振り分けても、現実(事実)がまじってくる。そのあいまないなまじったものを強引に拡大し「誤読」する。そうすると、その「誤読」のなかに自分(読者)の生活がはいり込み、自分の「肉体(体験)」を基盤にして、さらに「誤読(誤解)」が進む。--それは「誤解」なんだけれど(つまり作者の書いていることと完全に一致するわけではないのだけれど)、誤解のなかにも重なり合うものがあるので、その重なりあいから、そこに起きている「こと」がわかる。それが「わかる」と楽しい。だから「誤解(誤読)」しよう。


詩集 引き潮を待って
吉本 洋子
書肆侃侃房