「水仙」(ここからは『禮記』)
この野いばらの実につく
この一行は「文章」として不完全である--と思うのは、その次の「霜の恵みの祈りよ」という一行を読んでいるからそう思うのである。「つく」は終止形ではなく「連体形」であるとわかるのは次の行を読んだときである。
もちろん「この野いばらの実につく」は、「つく」が終止形であると判断するには、少し不自然なことばの動きである。助詞がおかしい。実「に」つく、ではなく実「が」つくというのが自然なことばのうごきなのかもしれない。だから、この一行の「つく」を終止形思うのは、「助詞」を無視した早とちりということになる。
けれども、そこには何か早とちりを誘うものがある。
行頭の「この」という指示詞が印象的である。「この」と突然指し示されるのだが、読者(私)には、その「この」がわからない。「この」がわかるのは西脇だけである。この一行は、そういう意味では「強引」なのである。何がなんでも西脇の意識の方へ動いていく。そういう強引さがあるから「実につく」という助詞と動詞の活用の組み合わせがねじまがって、「終止形」に見えてしまう。(これは私だけの錯覚、早とちりかもしれないが。)
ということと同時に、私には、何か「終止形」にこだわりたい気持ちがある。
西脇の詩には、ことばの行わたりがある。本来一行として連結していなければならないものが、途中で切断されて次の行に行ってしまうことばの展開がとても多い。
そのとき、それはほんとうに「行わたり」なのだろうか。
そうではなくて、いったん切断している。そこで終わっているのではないのか。終わった上で、次の行であたらしくはじめている。どんなに行がわたっても、西脇にとってはそれぞれの行は「終止形」なのではないのか。
「感覚の意見」として言うしかないのだが、一行一行が独立した「音」として和音をつくりだす。そういう「音楽」が西脇の詩にはある、と思う。