岩佐なを「コロネ」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

岩佐なを「コロネ」(「現代詩手帖」2014年01月号)

 「コロネ」とは何だろう。「音」になんとなくあやしげな感じがする--のか、岩佐なをが、

今日も買ってしまった
いとしいコロネ
紙袋にひそませて
晩秋のうら悲しい公園を訪ねる

 と「いとしい」というようなことばをまみれさせて書くから、あやしい、と思うのか。岩佐のことばには、猫のようにぐにゃりとした感触(固形物ではないという感触--あ、私は猫が苦手で、この感触はもう半世紀以上前の記憶。あれ以来、私は絶対に猫には触らない。見かけたら遠ざかる)があって、それが気持ち悪いから、そう思うのかもしれない。
 「いとしい」を追いかけるように「ひそませる」「うら悲しい」とことばがつづく。これじゃあ、どうしたって病弱な女を(まるで猫をあつかうように)なでまわしている情景が浮かぶなあ。公園で、誰かに見られることを期待しながら、何事かをするのかなあ、変態行為じゃないよね、と私は不安になりながら(久々に気持ち悪くなりながら、気持ち悪いのをみるのも快感だけれどという矛盾した気持ちをかかえながら)、詩のつづきを読む。
 途中の人がいるようでいないような、あやしい「うら悲しい」描写があって、

深い息
朽ちたベンチに腰をおろし
コロネを出すと
チョコレートクリームは冷えている
この淡水系にひそむもっとも大きい
巻貝の心もちにひびくように
パンの太いほうから指で揉んで
チョコを先端部へ移動させる
だれしもがよくやる愛のしぐさだ
そして先端を噛む
ひとくち
ふたくち
今またひとつが食い殺されてしまった

 あ、「コロネ」って巻き貝形のチョコレートパン、クリームパン?
 それは、でもどういいんだけれど、「愛のしぐさ」ということばがあるけれど、妙にいやらしい色っぽさがある。「冷えている」「心もちにひびくように」「指で揉んで」というようなことばの連なり(運動)が「食べる」という行為とかなりかけ離れている。口、歯、舌よりも遠くにある「肉体」が総動員されている感じがする--具体的には指しか出てこないのだけれど。なぜ、そういう感じがするかというと、その指の感触に、なんとなく「心」が乗り移っているように思え、それが「肉体の総動員」という印象を引き起こすのだ。
 ただ、ぱくっと噛みついて、むしゃむしゃ、じゃない。
 だいたいねえ、

パンの太いほうから指で揉んで
チョコを先端部へ移動させる

 これって、ほんとうに「だれしもよくやる」ことなの? さらにチョコを先端に押しやってかぶりつくって、「だれしもよくやる」こと? 「コロネ」がチョコレートパンなら、私は逆だ。私は太い方から、チョコレートの多い方から食べる。
 私と食べ方が違うので、その違いがまた、なんとも「肉体」を気持ち悪く感じさせる。「食欲」ではなく、淫靡な性欲を感じるなあ。いじくりまわさずに、ぱくっと食ってしまえよ、といいたい気持ちが半分あるなあ。
 「食欲」(岩佐の個人的な欲望)であるはずなのに、「コロネ」が奇妙に「肉体」をもって反応するのだから、よけいにそう思う。

水底の巻貝の王女は
ぷくぷくとなげきの声を
泡で吐く

 「コロネ」がパンなら、それに「女」という性別がついてくるのも変だよね。「食欲」の対象なら「女(王女)」である必要はないね。そこに「女」が絡んでくるかぎりは、これはやっぱり「性欲」。
 いやらしいんだけれど、それを隠している。隠しているから、よけい淫靡な感じがする。うーん、私は苦手だ。こういう感じは。
 と思っていると、


足もとには
三毛が来ている
コロネ、ほしいか。

 や、やっぱり「ネコ」が出てきてしまった。そうじゃないかなあ、岩佐はネコ属じゃないかなあ、と思っていたが、ネコを呼び寄せる体質なんだなあと思っていたが、やっぱりそうだった。「コロネ」には「よく探す」とネコがいる。
 きのう読んだ平田のことばの忠告(?)にしたがって、最初に「よく探し」、そのうえで感想を書きはじめるべきだったなあ。
 もう、逃げよう。







海町
岩佐 なを
思潮社