だんだん一行だけを取り上げるのがむずかしくなってきた。西脇の詩には行わたりというか、一行で完結しないものが多く、その不自然な(?)ことばの動きに詩があるからだ。その日本語の文法を脱臼させるような動き、それ自体が非常に魅力的だからである。
「山●の実」(さんざし--文字が表記できないので、●にした)
心を分解すればする程心は寂光
この一行は、次の行へ「の無に向いてしまうのだ。」と動いていく。一行では完結していないのである。
この一行は、それでも「心を分解する」と「心は寂光」が対峙することで、これはこのままでも完結しているとも感じさせる。西脇のことばには文法を超えた緊迫感がある。文法に頼らなくても、ことばがことばとして独立して存在する力がある。
そういうことを感じさせてくれる。
これは
の無に向いてしまうのだ。
でも同じことがいえる。この一行だけでは「意味」を正確につかみ取ることはできない。冒頭の「の」が文法としてとても不自然だからである。
しかし、その不自然を越えて、「無」が一行のなかではっきり存在感を持っている。「無」が見えてしまう。読んでいる私が「無」の方を向いて、「無」を見ている。見てしまう。
「寂光の無」ではなく、何もない「無」、何にも属さない絶対的な「無」。
詩とは、何かに属するのではなく、何にも属さない「もの/こと」なのである。
そういうものを、西脇はこの詩のなかで「これほど人間から遠いものはない。」と書いている。人間から断絶した「もの/こと」と向き合うために、西脇は文法という接着剤を破壊するのである。
きょうは自分に課した「おきて」を破って、3行を引用してしまった。