尾花仙朔「とある冬の日」(初出「午前」2)は「東日本大震災」と関係があるのだろうか。
凍り付くような世の中の道の底に
薄日が差して
きらきらは雪が降っている朝だ
鬼の子らが花屋に群れていた
「世の中の道の底」というのは「比喩」なのかなあ。「道」に「底」はないのだが--私にはそれが「見えない」ので、何か表面を剥ぎ取った「道」、道が舗装されるまえのむき出しの道のようなもの、道の原型(?)、そこからあらゆる「道」が生まれてくるような、余分なものを排除したまっすぐな土地を思い浮かべる。そこに日が差して、雪も降っている。何か明るい。けれど、「道の底」というこことばがもっている「原型」のようなものが、ちょっとこわい。安心とは逆なもの、ひりひりと感覚を剥がすような力もそこに感じる。
その「こわさ」(不気味さ/知らないものがそこにある、という不安)を結晶させて「鬼の子」があらわれる。でも、彼らは「花屋」といういわば美しいものといっしょにそこにいる。そして、それが「花屋」であるだけに、よけいにこわくなる。不安になる。何が起きるのかな?
托鉢の僧が通って行った
その姿を見た鬼の子らが後を追いかけ
嬉々として躁(はしゃ)ぎながら
一斉に花をかざして行った
私は知らず知らずに「鬼の子」から「鬼の」を省略して、その様子を思い浮かべる。托鉢僧が何をしているかわからないまま、からかうようにはしゃぐこども。そういうものを私は知っている。私自身が、そういうことをした(かもしれない)。よく覚えていないが、そういう記憶は私の「肉体」のなかにあるので、そして私は私自身を「鬼の子(だった)」とは思っていないので、ふつうのガキを思うのである。
こわいけれど、そのこわさが、ここでは少しやわらぐ。
そのあと。
と おお!其処に髪をふりみだし
幼児の骸をひしと抱えている
海からきたずぶ濡れの女(ひと)が
鬼の子らに紛れて
眦(まなじり)をきりりと彼岸に向かい
ひたすらにあるいているのだ
その姿は誰にも見えない
とある冬の日
「幼児の骸をひしと抱えている/海からきたずぶ濡れの女」が津波で多くの人が亡くなった東日本大震災を思い出させる。海で自分のこどもの遺体をみつけた母親の姿を私はそこに想像してしまう。
冒頭の「道」は、この女の人がみた「世界」かもしれない。絶望しているのだけれど、絶望しながらも、それでも自分のこどもを抱いている(抱くことができた)喜び--よろこびというのは変だけれど--が「明るさ」としてあらわされているのかもしれない。
その女の人は「彼岸」へ向かって歩いている。
「彼岸」というのは「死後」の世界であろう。そうなると、「道」は「死」へつづく道であり、女の人は自分の手でこどもを「死」の世界へ届けようとしているということになる。津波が死の世界へこどもを奪っていくのではなく、自分の手で、しっかりと送り届ける。
そういうことを描いているのだろう。
でも。(でも、というのは「飛躍」なのだが……。)
でも、「その姿は誰にも見えない」。--あ、ここにある「矛盾」。誰にも見えないのに、なぜ尾花だけに見えるのか。
「見る/見える」とはどういうことか。
ここに、詩が書かれる理由、詩を書いてしまう理由、根拠のようなものがあると思う。尾花にも、それは見えない。見えないけれど、ことばにすると見えるようになる。ことばにした瞬間から、それが目に見えるようになる。見えないものを見えるようにするためにことばがある。ことばは、そこにあるものを説明するためにあるのではなく、そこにないものを「ある」にするために動く。
ここで、私は少しきのう感想を書いた安藤元雄の詩を思い出す。安藤は「そこ」にある自分を描き、それを突き抜けて、そこに「ない」自分を「ある」ものとして描き出すところまでことばを動かした。その動かすための「力」を「食欲」ということばから引き出していた--ように私には感じられた。
同じことを尾花でも言えるだろうか。尾花はどのことばを中心にして「ある」をつくりだしたのか。「ある」の世界へ踏み込んだのか。「見えない」を「見える」に変えたのか。
そう思ったとき、あ、私はこの詩を読み違えていたと、突然気がつくのである。
鬼の子
このことばを私は桃太郎や泣いた赤鬼などに出てくる「鬼」の「子」のように簡単に考えていたが、そして私は「鬼の子」ではない(なかった)から、「鬼」を省略して、そこに自分のこども時代を重ね合わせてしまったのだが、尾花は「鬼」を架空の生き物、野蛮な(?)生き物とは考えていないのではないか。
「その姿は誰にも見えない」と尾花は書いている。「その姿」は文法上(文脈上)は「幼児の骸を抱えた女」を指しているが、それだけではないだろう。
「鬼の子」そものもの、誰にもみえない。「鬼」は「隠れる」の「隠(おん)」なのだ--という語源(?)のようなものが、ふいに、私の「肉体」のなかから飛び出してくる。どこかで聞きかじった記憶が、ことばではなく、肉体のように飛び出して目の前にあらわれる。津波によって「隠された」多くのこども。「隠されて」見えないこどもが大勢いるのだ。そして、そのこどもたちは見えないが「隠されている」ということは「見える」。「見える」どころの話ではなく、「わかる」。こどもが「隠された」ということが「わかる」。「肉体」に響いてくる。「目」で「見える」のではなく、「ひしと抱える」かたちで「隠されている」が実感できるのだ。
詩は論理ではないので、すっきりとは説明できない。順序立てて、結論へ向けてことばが動いていくわけではない。行ったり来たりする。あることばはそこにあるように見えて、実は「遠いところ」へ先回りしてしまっていて、そこには「残像」のようなものがある。「残像」なので、最初は、その「手応え」がない。「手触り感」がない。「架空」のもののように見える。感じられる。
「鬼の子」、その「鬼」は私には、最初はそういうものだった。なぜ「鬼」なのかなあ、普通のこどもでいいのになあ、という印象があった。
しかし、それは終わりから2行目の「見えない」ということばでまったく違ったものになってあらわれた。「反撃」のような感じだ。
尾花には「見えない」が「見える」のだ。「隠されている」が「見える」のだ。「見えないということ」が「見える」。
この叫びは強烈である。
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