西脇順三郎の一行(21)
『旅人かへらず/一六四』(30ページ)
車はめぐり
この一行は独立させて読むのがむずかしい。ということは「意味」をもっているということである。
この断章では西脇は「輪廻」を書いている。「人の種も再び人の種となる」というときの「再び」が「輪廻」を結晶させている。そういう「意味」を語る途中で西脇は「水車」を持ち出して「この永劫の水車/かなしげにまわる/水は流れ/車はめぐり/また流れさる」と展開する。
このとき「水」は「無常」である。いっときも「同じ」ではない。水車の「車」はどうだろうか。そのあり方は「水」の「無常」とはずいぶん違う。そこに存在しつづける。「無常」のなかにあって、「無常」ならざるものなのだ。
何を見たのか、一瞬、私はわからなくなる。
この「車」は「無常」ではないが、「無常」の影響を受けてまわっている。その「まわる」運動は、実はまわされているのだが、西脇のことばの調子からは「されている」という受け身の印象は浮かび上がらない。
「されている」につながる「まわる」を避けて「めぐる」という動詞で言いなおしている。言い直しながら、その動詞は「また流れさる」と、まるでそこに存在しながらも、水車がどこかへ消えていくという印象も呼び起こす。
何か矛盾している。
その矛盾に、詩がある。
水が流れさるなら、その水によってまわる水車の車も流れさるはずである。それでもそこに「車」があるなら、それは、そのつど水といっしょにそこにあらわれてくる「もの/こと」なのだ。
こういう消え去りながら、そのつどあらわれて、そこに存在しつづける「もの/こと(水車/めぐる)」の「自立性(自律性?)」が西脇の詩なのだ。
ことばは描写として「つづいている」のではなく、そのつど、そこに「あらわれている」のである。
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