金井雄二「海を想いながら」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

金井雄二「海を想いながら」(「独合点」118 、2013年11月20日発行)

 金井雄二「海を想いながら」。あ、このタイトルはいやだなあ、センチメンタルな響きがある。と思いながら読むせいか、

小枝の折れる音がした
枯れ葉の色が輝かしい

 ほら、秋の風景。小枝が「折れる」--その「折れる」に含まれる敗北の匂い。抒情詩の定型で始まる。
 でも2行目の「枯れ葉」はセンチメンタルだが「輝かしい」はちょっと違うなあ。輝かしいセンチメンタルがあってもいいけれど、何か、内側に沈滞があるのではなく、動きがある。
 これは何だろうなあ、と思い読み進む。

汗は体のどこから
浮いて出てくるのか
ぼくの足は動く
独りで歩くことの幸福感

 ほう、山登りの「幸福」、そのときの「肉体」の充実のようなものを書こうとしているのか。「ぼくの足は動く」と、まるで「足」そのものがかってに動くような描写がいいなあ。足に力がある。「ぼく」とは関係がない。肉体がかってに力をもっている。それは、その前の、「汗は体のどこから/浮いて出てくるのか」についても言えるかもしれない。汗は汗の思いで動く。足も同じように足自身の思いで動く--そういう「自発性」をもった若い肉体がここにある。
 この肉体の充実の中で、ことばは動いていく。

蜂の唸る音がかすかに聞こえ
樹木の乾いた匂いがし
陽が砂粒のように降る
言葉なんかなくたって
いや
本当の言葉は
この山道にすでに散りばめられていた
ザックを背負って
ぼくはひとつ、そしてひとつ
足を前に出して
確かめてさえいればよかった

 ことばは金井の「頭」のなかにあるのではない。「山道」にある。それに肉体がぶつかり、肉体の交渉することで、ことばが動く。山道にある「もの」と金井の「肉体」がぶつかると、そこからことばが汗のように「浮いて出てくる」。たとえば「輝かしい」、ことえば太陽の光が「砂粒のよう」。この瞬間(時間)が「幸福」。それは「肉体」がつかみとる「永遠/本当(のことば)」。このつかみとるを金井は「確かめる」ということばで描いている。たしかに「つかみとる」よりも「確かめる」の方がいい。つかみとらなくても、そこに「ある」。
 この「ある」は、しかし、自然に「ある」のではなく、金井が歩く人間に「なる」ときに、そこにあらわれてくる「ある」だね。きちんと歩かないかぎり、それは「ある」ではない。あっても、それは「見えない/確かめられない」。「ある」を確かめることができるように「なる」必要がある。
 で、そうして変化した「肉体」が、「永遠(本当)」に触れた金井の「肉体」が、

海を想いながら

 という最終行にたどりつくのだが。
 さて、あなたなら、その最終行までに2行を差し挟むとしたら(2行を書くことで最終行にたどりつくとしたら)、どんなことばを書きますか?

 ここでは、私は「答え」を書かない。金井がどんなことばを書いているかを書かない。「独合点」で、自分と金井と、どんなふうに違うかを確かめてみてください。


ゆっくりとわたし
金井 雄二
思潮社