「旅人」
汝カンシャクもちの旅人よ
「汝癇癪もちの旅人よ」でも音は同じだが、「カンシャク」と書いてあるのを読むと何かが違う。「癇癪」という文字を読むときよりも音を強く感じる。いや、音だけ感じる、といった方がいい。
そして、このとき私の肉体の中で起きていることといえば、はじめてことばを聞いたときの興奮が動く。何か知らないことばを耳にする。「意味」ははっきりとはわからない。けれど、状況からなんとなく「こと」がわかる。そこに起きている「こと」。
何度か同じ音(ことば)を聞くと、その「こと」がだんだん重なり合って、「こと」が明確になる。
「カンシャク」というのはいらいらした感じを爆発させてすっきりすることだな。「カンシャク」というのは「怒る」に似ているな。--という感じ。
そういう「意味以前」の状態へ私をひきもどしてくれる。
そしてこれからが大事なのだが、「ことば」聞きながら「意味」にたどりつくまでのあいだ、私の場合「音」が気に入らないと「意味」がやってこないのである。その「ことば」をつかう気になれない。聞いてわかるけれど、自分で声に出すことができない。「頭」で「意味」はわかるが、肉体がそのことばを「つかう」気持ちになれない。
西脇のことばを読んで私の肉体に起きることは、それとは逆である。「意味」はわからない。けれど、そのことばをつかいたい。「頭」が「意味」を「わかる」前に、「声(喉や舌、耳)」がその「音」を「つかい」たがる。
西脇のことばは、こどもがことばを覚えるときの「口真似」を誘う。「盗作」を誘う。「音」が盗作を誘う。
![]() | 西脇順三郎詩集 (岩波文庫) |
西脇 順三郎 | |
岩波書店 |