藤田晴央『夕顔』 | 詩はどこにあるか

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藤田晴央『夕顔』(思潮社、2013年11月14日発行)

 藤田晴央『夕顔』は亡くなった妻のことを書いている。「土」という作品がいちばん印象に残った。

一時退院の日は
めずらしく快晴
妻は
四十日ぶりの外の空気を吸い
青空に目をほそめた
二週間後には
また入院するのだが
ともあれ
一時放免
放たれた鳩は
丘の上から
残雪が残る岩木山を見た

木戸を入ってすぐに
しゃがんだ妻が
庭の土に手のひらをあてた
「あったかい」
わたしもあててみる
あたたかい
病室では
触れることのできないものたち
妻はまずはじめに
土を選んだ

 庭の土があたたかかったのはなぜだろう。春だからか。自分の家の庭だったからか。たぶん、後者だろう。自分が生きてきた家、その庭。その土。それを確かめている。
 藤田はそれを自分の手のひらで感じている。同じ庭の土に手のひらをあてるとき、そして土のあたたかさを感じ取るとき、その手のひらは藤田の手のひらであって藤田の手のひらではない。藤田の妻の手のひらである。「ひとつ」になっている。
 「ひとつ」になってわかることは土のあたたかさだけではない。妻は病院にいるときはふれることができなかったものがある、ということを藤田は知る。そして、その触れることのできなかったものに触れているということが、わかる。
 この「わかる」がとても自然な形であらわれている。
 春の土のあたたかさ--それを藤田は知ってはいるが、いまはじめて「わかる」。妻が望んでいるものは、こういう手でふれるあたたかさなのだ、と。そして、妻はあらゆるものを手のひらで直接感じ取ろうとしているのだということが「わかる」。「直接」が「わかる」。妻は「直接」を求めているのだ。
 藤田は、このとき妻になっている。「直接」が妻だと「わかる」。
 「わかる」ということは、自分が自分ではなくなり、他人になってしまうことだ。愛とは、自分が自分でなくなってもかまわないと覚悟して、ひとりのひとに「直接」重なってしまうこと、「他人」になってしまうことだが、--それがとても自然な形でここには書かれている。

 「夕鶴」も美しい。

妻は
中学三年のとき
木下順二の『夕鶴』のつうを演じた
背が高くてほっそりした少女は
鶴の化身にぴったりであっただろう
どんなにか少女は
つうの語る言葉を
くりかえし
そのほそいのどに飲み込んだことだろう
言葉を追って一羽の鶴が
十四歳の少女にはいりこんだ

 ことばを繰り返すとことばが肉体に入ってくる。ことばを追って鶴が少女の体に入り込んだのなら、藤田は藤田自身が書いたことばを追って妻のなかに入っていく。入っていくためにことばをととのえる。入っていくために、何度も何度も詩を書く。一篇の詩ではなく、何篇もの詩を書く。「肉体」は広い。どこまでも広がっている。その広がりのすべてへ入り込み、一体になるために、藤田はことばを書く。
 その藤田の生き方が静かな形で、この詩集にあらわれている。




夕顔
藤田 晴央
思潮社