西脇順三郎の一行(8) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(8)

 「馥郁たる火夫」

 何者か藤棚の下を通るものがある。そこは通路ではない。

 この1行も、「カリマコスの頭とVoyage Pittoresque」の「しかしつかれて」と同じように、複雑なイメージ(新しいイメージ)をもっているとはいえない。詩的な印象からは遠い。どちらかというと「俗」である。「現実」である。
 「そこは通路ではない。」だから、通るな--ということ。これは詩のなかにあらわれた突然の「現実」である。
 詩とは「手術台の上のこうもり傘とミシンの出合い」である。異質なものが偶然出会うとき、そこに詩が噴出する。そして、まわりが「詩的言語」に満ちあふれているなら、そこには「現実」こそが「ありえないもの」になる。
 ある状況を攪乱することばこそ、詩なのである。「俗」があふれかえる豪華なイメージを洗い流し、詩の骨格をあばくのである。