「馥郁たる火夫」
何者か藤棚の下を通るものがある。そこは通路ではない。
この1行も、「カリマコスの頭とVoyage Pittoresque」の「しかしつかれて」と同じように、複雑なイメージ(新しいイメージ)をもっているとはいえない。詩的な印象からは遠い。どちらかというと「俗」である。「現実」である。
「そこは通路ではない。」だから、通るな--ということ。これは詩のなかにあらわれた突然の「現実」である。
詩とは「手術台の上のこうもり傘とミシンの出合い」である。異質なものが偶然出会うとき、そこに詩が噴出する。そして、まわりが「詩的言語」に満ちあふれているなら、そこには「現実」こそが「ありえないもの」になる。
ある状況を攪乱することばこそ、詩なのである。「俗」があふれかえる豪華なイメージを洗い流し、詩の骨格をあばくのである。