石川逸子「鳥の音」には「メシアン「世の終わりの四重奏曲・第三楽章」」というサブタイトルがついており、作品の斎賀には「2013・7・27「コントラスト」演奏を聴いて」という注がついている。演奏を聴いたときの感想を詩にしたものだ。
囚われの身で はばたいた 心
たった一つの楽器 クラリネットに託した 願い
出だしは かすかに 胸のうちからこぼれ出た吐息のよう
そら耳だったか と疑うほどに
やがて 吐息は 次第に大きく 力強く
憂いをおびつつ さまざまな鳥となって
てんでに鳴き はばたき
枝々から飛び立ち
零下二十度 指も凍りかけ
雪のなか 演奏を聴く 囚われびとたちは 軍服の所員も
ふと大気を飛びまわる
鳥になって いっとき 微笑み わらった
わたしは ツグミ
わたしは コジュケイ
わたしは ナイチンゲール
どこまでも 飛んで行くんだ
一つの音からはじまり、それが聴く人を鳥にかえていくまでの動きがどきどきするくらい美しい。
「かすかに 胸のうちからこぼれ出た吐息のよう」というのは、二重の形容のようにみえるが、そうではなく、言いなおさずにはいられないこころの動きをつたえている。「かすかに」では伝えられない。言いなおしたい。それが「胸のうちからこぼれ出た吐息のよう」と動いていく。
この動き、言いなおさずにはいられない思いは、「疑うほどに」「飛び立ち」という形で、連から連へ渡っていく。
「かすかに」と「胸のうちからこぼれ出た吐息のよう」のあいだに1字空き(空白)があったが、その空白を飛び越えてことばが動き、深まるように、連と連とのあいだにも空白(1行空き)があり、それを飛び越えて心は動く。飛び越えることによって、動きが強くなる。
「疑うほどに」「飛び立ち」という連を完結させない形が、ここではとても大きな力になっている。
きのう読んだ大橋愛由等「むじか」では連から連へ切れずにつながっていったが(連続を求めてことばは動いていったが)、石川のことばは、「切れずに」というよりは、「いま」を踏み台にして、振り切って、という感じがする。
「いま」を振り切るのだけれど、きちんと切断する時間も惜しくて、ともかく飛躍するのだという急いでいる感じが、わくわくさせる。ときどきさせる。
大橋愛由等「むじか」では「粘着力」として動いたことばの力が、石川の場合は逆に働く。切断し、離れていく。離れることで、強くなる。
そして、その「離脱」の力のなかで、とんでもないことが起きる。
囚われびとたちは 軍服の所員も
対立する側の人間の区別がなくなる。演奏は囚われているユダヤ人のためのものだが、その音のなかへ囚人たちが誘われて動くとき、それを聴いている看守たちも動く。同じように「いま/ここ」を離脱してしまう。
動詞は、人間の区別をなくしてしまう。
動詞のなかには、人間を区別するものはない。
動詞を生きる「肉体」は一つなのである。
動詞のなかで、人間はつながるのである。
「切断」(分離)を超えて、「粘着力」とは違った形で--つまり分離したまま、個を保ったまま、人はつながってしまう。
わたしは ツグミ
わたしは コジュケイ
わたしは ナイチンゲール
それぞれが別々の鳥になればなるほど、ひとは「鳥になる」という運動(動詞)のなかで、ひとつの「いのちになる」。
3連目から4連目への飛躍のとき、連の終わりが「わらった」と完結しているのも、とても的確な、運動をそのまま、きちんと伝える。1連目、2連目は、「いま」を切断する間(時間)もおしく、いそいで動くのに、3連目では、「よし、ここだ」という感じの決断をして、すぱっと「いま/ここ」を切り離す。
そして飛び立つ。
「いま/ここ」とは無関係になる。ツグミ、コジュケイ、ナイチンゲール。みんなばらばら。ばらばらだけれど、飛びながら歌いながら、という「動き」のなかで「ひとつ」になる。
それまでの「いま/ここ」は完全に叩きこわされ、空を飛ぶ自由、歌いたい歌を歌う自由が広がる。
かじかむ指 こわばる唇を だまし だまし
ユダヤ人奏者は 強く ひたすら強く
吹きつづける 吹きつづける
壊れよ! 捕虜収容所! あとかたもなく壊れよ!
ことばは繰り返される。ことばを、肉体が反復しているのである。肉体をことばが描写し、その描写をことばではなく肉体そのものが反復する。新しい肉体を誕生させているのだ。
その新しい肉体は、必然的に、「いま/ここ」を新しい世界にする。
「肉体」が誕生するとき、「世界」も誕生する。
あ 高い塀はとっぱらわれ
かしこに見えるぞ
うすむらさきいろの空 に かかった
はでやかな 虹
「かしこ」がいいなあ。新しい肉体は「かしこ」を呼び寄せるのだ。「いま/ここ」を「かしこ」にしてしまう。
人間の運動、そのリズム、音楽が、人間を作り替え、世界を作り替えていく。その瞬間に立ち会っている幸福が、いきいきとつたわってくる。
この幸福は、「まぼろし」かもしれない。現実は、それを許さないかもしれない。それでもいい。私たちは、その「まぼろし」を見る力をまだ持っている。
やがて 再び 音はしずまり
飢えた 囚われびとたちの肩に つもる雪
クラリネットから かすかに こぼれる 消えない 望み
やせこけた 囚われびと 作曲家の 肩にも つもる雪
![]() | 定本 千鳥ケ淵へ行きましたか―石川逸子詩集 |
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