池田瑛子『岸辺に』は「ことば」を「声」そのものとして書いた作品が印象に残る。「記憶の雫」は狩野探幽の屏風絵を寄贈した人のことから書きはじめて、
驚いたことに 寄贈したのは
実家の町の老舗呉服店<丸久>さんのご主人
先代は亡くなった父の親友だったから
生前父は見たことがあるかもしれない
いつだったか 縁側に腰かけて
--丸久さんの庭は落ち着いたえぇ庭やがのう--
見てきた庭を重ねるように
しみじみ 呟いていた姿が
ふいに蘇る 声そのままに
「ことば」を思い出しているのだが、それは「意味」というよりも「声」なのだ。肉体の感情なのだ。それにのみこまれるようにして、父が見たことがあるかもしれない屏風を見る。
見たことのないその庭の
高く大きく深く繁ったであろう樹樹が
風を通らせ
雪見灯籠や息づく苔に
揺れる光と翳を
降りそそいでいるのがみえる
屏風は消えて、庭が見える。屏風の絵が、父の見た庭になる。これは「目」で見るというよりも「耳」で、「耳」に残る父の「感嘆の声」が肉体を刺戟する力で見る風景である。しみじみとした父の「声」が池田の肉体のなかで「蘇る」とき、池田は父になってしまうのである。父は絵を見たかどうかはわからないが、庭は見た。だから、その庭が絵に侵入し、絵を作り替えてしまう。
「声」から他人になる。
「声」から、「いま/ここ」ではない何かを蘇らせる、というのは「らふらす」も同じである。池田は「意味」ではなく「音/声」を覚えている。
富山弁では消防車を「らふらんす」という。(私は聞いたことがないが、それは私の住んでいるところでは消防車がなかったからである。)池田はずーっとそれを覚えていた。いまはそれを覚えている人は少ない。夫も知らないという。ところが、
何気なく読んでいた新聞
とやま弁大会の記事にあった
大正時代に富山市に初めて導入された消防車は
外国のラフランス社製だった
ラフランスは富山弁で消防車を指すと
やっぱり<らふらんす>と呼んでいたのだ
心のなかで
ら
ふら
ん す
迷子だったやさしいこ言葉が
昔の町へ帰っていった
赤い消防車になって
「音/声」が「視覚」ととけあって「世界」が落ち着く。池田は「声/音」の人である。
「風鈴」も印象的である。
若いお嫁さんだった頃
父と妹が我が家へ時節の挨拶にきた
帰り道
「あれは泣いた顔だったね」
ばーっと涙をこぼす父に
どう対処すればいいのか困ったわよ
四十年経ってはじめて聞いた
父が亡くなってからでも
二十七年経っているのに
「詩は書いているのか」
唐突に尋ねたのは優しい言葉のつもりだったのか
ほどかれてゆく記憶に
風鈴が鳴っていた
池田の正直(肉体/記憶)が「声/音」といっしょにあるからこそ(声/音に反応するのもだからこそ)、最後の一行「風鈴が鳴っていた」が自然に落ち着く。
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