
この映画はレヴォン・ハフトワンの荒く苦しげな「はあ、はあ、はあ」という息と、彼の醜いからだからはじまる。太っている、禿げている、中年である。だぶだぶのTシャツとズボン。汚れがわからないようなダークな色合い。体型や容貌でひとを判断してはいけないのだが、現実ではないので、私は平気で差別してしまう。だらしないなあ。その彼が、窓に新聞がはってある殺風景な部屋にいる。ベッドにごろんところがる。彼は仕事を持っていない。今で言うと「ニート」である。やっぱり、ね。こんな格好していたら、仕事だってないよなあ……。
映画は、このレヴォン・ハフトワンがなぜ殺風景なアパートにいるのか。そこで彼がどんなふうに生きていくのか、何をみつめ、何を考えるのかを、レヴォン・ハフトワンになりきってみつめていく。長まわしのカメラが、常にレヴォン・ハフトワンの側にいる。その長まわしは一般の長まわしとかなり違う。ふつうの長まわしはカメラのなかで役者が演技をする。役者の「肉体」の連続性が長まわしのカメラを突き破って存在感をもってくるまで長まわしをする。この映画では、レヴォン・ハフトワンは最初から存在感をもっていて、長まわしの必要がない。この映画の長まわしは、レヴォン・ハフトワンの存在感ではなく、彼が存在するときの「周囲」の存在感をうかひあがらせる。窓に新聞をはった室内の光、その光がつくりだすぼんやりしたくすみ、壁の剥がれかけた塗装やあれこれ。レヴォン・ハフトワンの肉体はかわらないが、この部屋だって、これから先、何も変わらない、という感じがする。家具を入れて、部屋を暮らしやすいようにととのえる、ととのえれば新しい生活がはじまるという印象はまったくない。部屋そのものが、もう改善されることを放棄したレヴォン・ハフトワンの肉体のようなのである。--これは、部屋そのものがそういう性質のものであるというより、レヴォン・ハフトワンにみつめられることによって、そうなっているのである。そのことがわかるまでには、かなり時間がかかる。観客はがまんして、このレヴォン・ハフトワンの視線どおりに動くカメラになれないといけないのだが……。
いったん引き込まれてしまうと、これは、すごい。見ていてレヴォン・ハフトワンになってしまう。彼の息遣いそのものになってしまう。このとき、おそろしいことがひとつある。息遣いの「はあ、はあ、はあ」以外に、彼を印象づける「音」がないのだ。ふつうの映画のように、音楽が彼の心情を代弁するということがないのである。ふつうの映画では悲しい場面には悲しい音楽が流れる。何かが起りそうなときには、これから何かが起こるぞという感じをあおる音楽が流れる。そういう映画文法のなかで、観客は主人公と一体化するのだが、この映画はそういう一体化を拒絶して、「はあ、はあ、はあ」とだけ一体になるよう迫ってくるのである。視線(カメラ)の動きとともに「はあ、はあ、はあ」が重なると(その息が実際に聞こえないときにさえ、彼の息遣いは耳のなかに響く)、もうレヴォン・ハフトワンになるしかないのである。
沈黙と、「はあ、はあ、はあ」。ときどき噴出する短い台詞。それはいつでもレヴォン・ハフトワンを傷つける。父親の「肉が生焼けだ」「塩をかければ」「塩で焼けるのか」という批判。クリーニング店長の「スーツをもっていないだろう」など。有効な反論がない。何も言えないことと、「沈黙」が重なり合う。「はあ、はあ、はあ」。そのなかに、ことばにならないことば、沈黙と拮抗する何かが生まれてくる。レヴォン・ハフトワンの味方をするものは何もない。(音楽もそうだが、背景をつくりだしている室内や調度も、彼を代弁しない。彼の精神がどう動いているかを印象づけない。)味方は「はあ、はあ、はあ」だけである。
そういう息苦しい展開のなかで、最後だけ、映像が大きく変化する。その変化はそのままレヴォン・ハフトワンの変化でもある。レヴォン・ハフトワンがテーブルに座るとき、最初のシーンでは画面の右側。左側が父親。アパートでひとりで食べるときも右側。少年がやってきてふたりで掛けるときもレヴォン・ハフトワンは右側。左側に少年。いつも右側に座ることでレヴォン・ハフトワンが「権力」的に弱いということをこの映画は象徴しているのだが、最後は位置が逆になる。レヴォン・ハフトワンが左側。父親が右側。そして、そのとき台詞。「たばこを吸うな。ここは私の家だ(私にしたがえ)」「私は客だ」。明確に自己主張し、反論する。「肉が生焼けだ」と批判されたときのように、やりこめられるだけではない。
食事のあと、「話をしよう」と父親をソファに腰掛けさせる。このときは父は左側、レヴォン・ハフトワンは右側になるのだが、右側ではあってもレヴォン・ハフトワンはテーブルの左側の椅子(それまで座っていた権力の椅子)をもってきて、向き合う。この動きを、例の長まわしのカメラがずるーーーっという感じでとらえる。切り返しの方が映像がきれいだと思うが(椅子が明確になると思うが)、あくまでレヴォン・ハフトワンの視線の動きにこだわるのである。そのずるーーーっと動くカメラのなかで最後にレヴォン・ハフトワンの顔がアップで映ると、あ、もう、私は完全にレヴォン・ハフトワンそのもの。その後起きることはこの映画では描かれていない。観客の想像力に任されているのだが、それまでの策略で夜警の主任を追い出したり、赤ん坊を誘拐し放置したり、小犬をごみといっしょに捨てたり、クリーニング店長を殴り殺したりするのを見たあとでは、何が起きるか簡単に想像できる。--想像できるというのは、私がレヴォン・ハフトワンになってしまっている証拠で、それがこわくてどきどきするのだが、なんだかわくわくもするのである。これですべて片がついた。片をつけてやるぞ、と思ってしまうのである。
この映画の狙いは、人間を孤立させる社会が、孤立した人間をどんなふうに暴力的にしてしまうか、誰もが暴力的になる危険をもっているということを明確にすることにあるのかもしれないが、そういう社会メッセージを抜きにして、私はレヴォン・ハフトワンになってしまうことに溺れてしまった。
そういう魔力をもっている。映画そのものの情報量を極端に少なくする演出理念、独自のカメラの動き、音楽の処理--どれもこれも、きわめて新しい。絶対に見逃してはいけない映画なのだけれど、一般公開の予定はまだ立っていないようである。ぜひ、日本でも一般公開してほしい作品である。