「台所」という作品の書き出しに引き込まれる。
包丁の角をつきたてて
ぐるりとねじこみ えぐる
台所の隅に置かれてあったじゃがいもは
いつのまにか芽を伸ばしていた
毒を含むそこ
放置されているもののなかにも「いのち」があり、それは芽吹く。そして、その芽吹きは「毒を含む」というのは--最近見たマジド・バゼル監督「パルヴィズ」の主人公を思い出させる。(私はこの映画のショックからまだ立ち直れないのだが……新しすぎて、その映画の魅力を書き表すことばがまだ見つからないのだが……)
その毒を、「包丁の角をつきたてて/ぐるりとねじこみ えぐる」と動詞を三つ重ねて追い込んでいくときの動きがとてもいい。中島真悠子に私は会ったことがないのだが、こういう肉体の動きを読むと、会ったような気がしてしまう。私の「肉体」がおぼえていることが、中島の書く動詞といっしょに動き、私の「肉体」と中島の「肉体」が、「ことばの肉体」をとおして重なり合う。その重なりに、違和感を感じない。しっくりと、感じる。あ、そこ、という感じ。--こういう感じを私は「ことばの肉体でセックスする」というのだけれど。
じゃがいもの芽をえぐる--ということは、簡単に「じゃがいもの芽をえぐる」、あるいは「取り除く」で十分なのだけれど。言い換えると、料理本のマニュアルにはたぶんじゃがいもの芽は最初に「取り除いて」くらいの表現ですませているのだろうけれど。それを「包丁の角をつきたてて」から書きはじめると、読みながら「肉体」が動くでしょ? そして、いっしょに「肉体」を動かしながら、その動きが甦る。ここには本当のことが書いてある、ということを自分の「肉体」の記憶として思い出す。中島は自分の体験を書いているのだけれど、具体的で、ていねいで、正直なので(省略も、嘘もないので)、それが迫ってくる。
そして、これは中島が書いていないのだけれど。
「包丁の角をつきたてて/ぐるりとねじこみ えぐる」という具合に、しつこい感じ(?)が何か、ほら、自分のなかで「悪意」があるときの気持ちの発散の仕方を感じさせるでしょ? 何かを痛めつけている感じがするでしょ? 「取り除く」では、この、何かを痛めつけるときの、「肉体」の力の入り方が出てこない。(感じられない)。
うーん。
中島はじゃがいもの芽が「毒を含む」と書いているのだけれど、それだけではないね。その芽を見て、毒を感じるとき、中島のなかにも無意識の毒が含まれている。だから「取り除く」ではなく「包丁の角をつきたてて/ぐるりとねじこみ えぐる」と動くのだ。じゃがいもの毒と同時に中島は中島の中の無意識の毒を発見している。
新しい生 は
朝の台所で
儀式のように
正しく切り取られていく
毒は「新しい生」でもある。中島の「肉体」のなかから生まれて、まだ「肉体」になりきれない「いのち」である。そう気づくからこそ、ここで中島のことばはいったんにぶる。「儀式のように/正しく切り取られていく」。暴力や憎しみはなく、それを「儀式」をとおしてととのえるという無意識が働く。
ここはあまりおもしろくないが、その「儀式」によって「いのち」が傷ついた感じ(感傷的になった感じ?)が、次の連でそのままことばになるのを読むと、あ、中島は揺れ動いているということがよくわかる。
ざらつく表皮
歪みくぼんだ塊
内からあふれだした芽
そのように
私という塊にも
なかなか「毒」を「これが私の毒です」と、目を背けたくなるような形、えぐりとってしまえ、という残酷な気持ちを引き出す具合に表現するのはむずかしいね。自分に(自分とつながる人間に)遠慮している。だから、
姉の腕が
母の舌が
出てくる出てくる
目が髪が歯が
背から肩から頬から
歳月をかけて
かすかに毒を含んで
「毒」が毒のままではなく「かすかに」と弱められてしまう。これは残念だなあ。弱まった毒は、もう毒ではなくて、「薬」だ。「肉体」を(暮らしを、思想を)、ことばでととのえようとしている。この無意識は詩の大敵である。
これをどうするか。詩の大敵である無意識の「良識」、毒を「かすか」なものにおさえて他人の批判をかわす動きをどうするか--後半の詩を読むと、その操作を中島は「フィクション(物語)という形で処理するのだが、うーん、これは中島の選んだ方法だとしたら、ちょっと残念。
物語のなかで「概念」の動きをつかまえる。「意味」を描くというのは、詩の仕事ではないのである。概念を書かないと(この詩でいえば「歳月をかけて/かすかに毒を含んで」のなかに暮らしの意味、概念がある)、ことばは成立しないという心配があるのかもしれないけれど、「もの」と「肉体の動き」を描けば、「意味/概念」は読者の肉体のなかで勝手にできあがるのである。そこで「ことばの肉体」のセックスが可能なのである。「概念」を持ち込むと、せっかくの「ことばの肉体セックス」が「頭のセックス」におわってしまう。「現実」が「妄想」になってしまう。
この詩は、途中でかなり寄り道をするが、最後はなんとか「肉体」を復活させている。どこかしぶといところがある。
私は待っている
掘り起こしてくれるやさしい手
するすると皮を剥けばこんなにも
おいしく肥えた内実だと
子宮のようにたっぷりと水を張ったボールに
ごろりと沈めれば
静かにぬくい朝の明るい台所
生まれ変わった「いのち」が「待っている」女性に限定されているのが少しくやしいけれど。そのととのえ方が「毒」となって、社会に広がっていくよ、と私は言っておきたい。こんな形の「女性詩」を突き破る毒になってほしい。書き出しにはその力がこもっているのだから。
![]() | 文芸雑誌「狼」21号 |
| 古山正己,加藤思何理,岡田ユアン,石川厚志,颯木あやこ,広田修,木下奏,中村梨々,中島真悠子,三浦志郎,小山健,光冨郁埜,服部剛,坂多瑩子,洸本ユリナ,高岡力,今鹿仙,坂井信夫 | |
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