詩とは何か。かけ離れたものの出会い。秋亜綺羅なら、そこに「偶然」ということばを入れる。私はしつこい人間なので、かけ離れたものの出会い(接続)に、日常との切り離し(切断)をつけくわえる。詩には接続と切断が同時に起きている。
で、たとえば手術台の上のこうもり傘とミシンはかけ離れたものの、突然の、そして偶然の出会いだけれど、それが出会うときこうもり傘もミシンも日常から切断されている。これは「こと」をどうとらえるかという視点の違いの問題のようだけれど。それだけにすぎないようだけれど。
それでも私がわざわざ「切断」ということをことばにしたのは、「接続」に出会ったとき、人は「切断」をあまり意識しない。接続にひっぱられてしまう。だから詩の定義も「かけ離れたものの出会い」となってしまう。「接続していたものの切断」とはいわない。「切断」は一般的に「笑い」と言われる。警官がバナナに滑って転ぶとだれもが笑う。それは「権力」をもった人間がバナナで滑ってころぶとき、その権力が無意味に切断されているからである。ところが警官が銀行強盗に射殺されたときだれも笑わない。権力はそのとき死んで、ひとりの警官から切断されてしまうのだが、だれも笑わない。そういう切断もある。
あ、かなり余分なことを書いてしまったが……。
詩人アリス「夜の国のアリス」を読んでいて、「接続と切断」ということを書いてみたくなったのだ。
そこには銀白色の結晶が日曜の午後の少年の背中に流れる森の生き物の気配が漂う
海水は混濁して到達する前の巨大な飛行昆虫が水蒸気に放出する
黄昏時に濡れた翼の少年はアモルファスの風花を食べて内分泌器官を欠落する
こうして声を失った少年は神殿の終わりに第三の太陽を破壊させる神風となった
1行目にはいろいろなことばが「接続」されている。助詞が何でもつないでしまう。「銀白色の結晶」は汗だろうか、汗が乾いてできた塩の比喩だろうか。それが「日曜」を引き寄せ、「午後」を引き寄せ、「背中」を引き寄せる。この運動は、透明な、一種のメルヘンの「接続」である。このときことばは「ことば」を引き寄せているだけではなく、「メルヘン」をひそかに引き寄せている。だんだん濃密になってきて、ちょっと息苦しくなるくらいである。このとき「切断」されているのは、「メルヘン」から遠い「日常」である、と書いてしまうと、ぜんぜんおもしろくないね。あたりまえすぎて。
私が書きたいのは(指摘したいのは)次の行。その最後の方。
飛行昆虫が水蒸気に放出する
この強引な文体。「水蒸気を放出する」という言い方はあっても「水蒸気に放出する」という表現はない。あえていえば「水蒸気になって放出される」が可能である。
水蒸気に放出する
水蒸気を放出する
水蒸気になって放出される
この違いは? ことばを「助詞」を基本に動かすか。あるいは「動詞」を基本に動かすか--というか、助詞を中心にしてことばを取り込むか、動詞を基本にしてことばを意味に変えるか、ということが無意識的に要求されている。
読者は、助詞か動詞かをいったん捨て去って、詩人アリスのことばと向き合うことを要求されている。「接続」の方に目が向いてしまうが、ほんとうに求められているのは「流通文法」からの離脱(切断)である。
3行目の最後の「内分泌器官を欠落する」も同じである。「内分泌器官を欠落させられる(内分泌器官が機能しなくなる、くらいの意味か)」か「内分泌器官が欠落する」か。前者の「内分泌器官を欠落させられる」は「内分泌器官が欠落させられる」ともいう。(水「が」のみたい。水「を」のみたい、の違いのようなものである。九州では、水「を」のみたいとしかいわないみたいだが……。)
この文法の「切断」は強引な「接続」をともなっているので、文法をことばの「肉体」と考えたとき、その「切断/接続」は「脱臼」のように感じられる。「脱臼」して肉体の動きがぎくしゃくする。そのとき「肉体」はそこが「痛い」はずなのだが、生身の肉体と違ってことばの「肉体」の「脱臼」はなんだかくすぐったいところがある。「笑い」に通じるなるかがある。心底おかしいのではなく、肌の表面に引き起こされる違和感、肉体の反応(生理の反応)としての「笑い」。
こういう「生理の反応(切断と接続)」を軽く感じさせるために何が必要か。
あらゆることばが明晰であること、だれもが聞いてわかること、軽いこと、が必要である。知らないことばが切断と接続にまじってくると、それが切断であり、同時に接続であるということがわからない。「ことば」そのものの「意味」につまずいてしまう。意識そのものがことばから「切断」されて、どこかで調べ物をしてこないといけなくなる。
詩人アリスは、こういう処理の仕方において、秋亜綺羅に非常に似ている。だれもが知っていることば(名詞、動詞)しかつかわない。だれもが「おぼえている」ことばしかつかわない。「おぼえている」ことばを動かすから、「おぼえている」文法が切断され、強引に接続されたと感じるのである。
私たちの意識は、名詞、動詞に向かいやすい。「助詞(てにをは)」は無意識に動いている。その無意識を詩人アリスは「脱臼」させる。あえて言えば「切断」させる。
「切断」や「脱臼」は痛みをともなう。だから一般的にはそういうことをしない。けれども詩人アリスは、その痛みを自身で引き受けて「脱臼」の新鮮をつかみ取っている。そのつかみ方が、スピーディであり、軽快だから、それが楽しい詩になる。
![]() | 季刊 ココア共和国vol.13 |
秋 亜綺羅,谷内 修三,小林 坩堝,高橋 玖未子,海東 セラ,葉山 美玖,金子 鉄夫,詩人アリス | |
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