谷川俊太郎『こころ』(44) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(44)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「おのれのヘドロ」という作品。「ヘドロ」は汚いものという「比喩」として定着してしまっているかもしれない。だから、一見すると、「流通言語」で書かれた「流通概念」という感じが少しするのだけれど……。

こころの浅瀬で
もがいていてもしようがない
こころの深みに潜らなければ
おのれのヘドロは見えてこない

偽善
迎合
無知
貪欲

 「こころの浅瀬」と「こころの深み」という対比も定型であるのだけれど。うーん、なぜ浅瀬にいてはいけない? なぜ「こころの深み」に潜らないといけない? 自分でわざわざ「ヘドロ」を見つけ出さないといけない?
 そんなに真剣に自己反省しないといけないのかなあ。

自分は違うと思っていても
気づかぬうちに堆積している
捨てたつもりで溜まるもの
いつまでたっても減らぬもの

 あ、「ヘドロ」はたしかに気づかぬうちに溜まるものだろうけれど、最後の一行。「減らぬもの」。「溜まりつづけるもの」は、あたりまえのことだけれど「減らない」。けれど「減らない」ということを私たちは(私だけ?)、なかなか気がつかない。それはもしかすると絶対に減らないもの、絶対に捨てきれないものかもしれない。
 じゃあ、どうすればいい?
 と質問し、答えを探していけば、うーん、うるさい「倫理の教科書」みたいになるから、谷川は書かない。

 谷川はどこかとても「論理的」なところがあって、その論理で生活をととのえ、ことばをととのえる。最後の2行(3行、かもしれない)には「堆積する」「溜まる」を「減らぬ」ということばで説明し直している。「論理の経済学」から言うと、この言い直しは無駄、饒舌である。過剰である。
 でも、それが過剰だからこそ、そこに詩が生まれる。
 「減らぬもの」と言いなおされたとき、はっと、肉体の奥で動くものがある。「堆積する」「溜まる」と「減らぬ」は違うのだ。「減らぬ」ではなく、「減らせない」のである。「捨てたつもり」ということばもあるが、「捨てる」をつかえば、この「減らぬ」は「捨てられない」でもある。
 「こころのヘドロ」は捨てられない、減らせないものなのである。
 谷川は「事実」を念押ししている。その、繰り返しのなかに、念押しするということばの動きのなかに、谷川の「生き方(思想/肉体)」がある。
 ふと、どんなことでも念押しし、くりかえし、ことばにして確かめている谷川の姿が浮かんできた。



地球へのピクニック (ジュニアポエムシリーズ 14)
谷川俊太郎
銀の鈴社