女になって詩を書く--ということを谷川はしばしば行っている。「五時」も、そういう一篇。
誰かは知らない
でも誰かを待っている
そう思いながら座っている
西日がまぶしい
生まれたときから待っている
そんな気がする
恋人には言わなかった
夫にも言っていない
待っていたのはこの人
と思ったことが一度だけあった
(たぶん早とちり)
この女は、若くはない。「夫」が登場する。しかし、新婚ではないだろう。子どもが詩に登場しないのは、子どもがいても独立していっしょに住んでいないからだろう。そういうことを想像させる。
「待っている」に、どう接近していけばいいだろうか。
つまり、
なぜ「探している(探していた)」ではないのか。
いまを生きている女たちは「待っている」ということばに自分を重ねるか、「探している」ということばに自分を重ねるか。--どちらを、いまを生きている女とみるか。
あ もう五時
スイッチを入れなきゃ
何のスイッチを入れるのか。「待っている」という動詞を生きてきた女なら炊飯器のスイッチを入れることになるのだろうか。
読みながら、想像力が「流通概念」としての女のなかを動いているのを感じる。
きのう読んだ詩に「新しい入り口」ということばがあったが、この最後の2行は「新しい入り口」になるだろうか。
「新しい入り口」だけが詩ではない、と言えば、まあそうだが。
なじんだ場所へ帰っていくためのことば、なじんだ時間へ帰っていくための詩というものだろうか。
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