船越素子『半島論あるいはとりつく島について』 | 詩はどこにあるか

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船越素子『半島論あるいはとりつく島について』(思潮社、2013年07月20日発行)

 船越素子『半島論あるいはとりつく島について』は途中まで何が書いてあるかわからなかった。ことばがとても遠いところにある。
 「歩行するブロッコリー」まで読んで、その書き出しが気に入った。

私は その三丁目のちょうど左角で
みずみずしい緑色の
うっとりするくらいハンサムな
ブロッコリイに出会った

 「ハンサムな/ブロッコリイ」。これはいいなあ。健康な食欲がある。

ブロッコリイは塩茹でにする
お鍋がないので 草枕
旅にしあれば椎の葉か
冷蔵饂飩のアルミの器をつかう

 ここもいいなあ。どんなことがあっても食べるぞ、という力がある。
 で、そのあと、また何が書いてあるかわからない詩がつづく。「日本語」のようだけれど、まるで読むことができない。
 そして、「弘前 night  あるいは雪の塑性」のなかほど。

缶ビールやワインや日本酒がとびかい
もつ煮込みや握り飯やチーズが投げ込まれ
いまや胃袋の中は
格闘技の様相を呈し
それでも許そうとはしない
私の孤独なのだった

 ここは、わかるなあ、と思って、あ、私は船越の胃袋(食欲)とならつながることができるのか、とわかった。船越の詩で私にわかるのは「食べる」(胃袋)なのだ。
 食欲といっしょに孤独がある、食欲によって肉体の存在を感じている、という感覚が、不思議になつかしい感じで肉体を揺さぶるのである。「食べる」ことをかいた部分のことばはスピードがあって、「肉体」から噴き出してくる感じがする。

(僕の孤独を食べて欲しい)

 というのは「傷痕の犬たち」という作品の1行だが、こういう抽象的なことばさえ美しく迫ってくる。「わかる」と思ってしまう。

ランチタイムぎりぎりの昼食をとった
安物のワインを口に含んだとたん
私の脳髄が
ヨーグルトのように ぷるぷる震えた
私の海馬にロバがいる
いや、海馬がロバだ つぶらな瞳から大粒の涙

 これは「鳥肌日和り」のなかほどの行。食欲(胃袋)と脳髄がつながって、「脳」が「頭」ではなく「肉体」になる。そこに「健康」がある。「思想」がある。
と書くと抽象的だが……。
 圧巻は、「ヒロシマ、わたしの恋人」。これはデュラスの映画とつながっているのだが、どんなふうに「肉体」でつながるかというと、

西の岩国 東の呉に挟まれたヒロシマの
ヤクザも暴走族も出没する駅前で
痩せた鳩が噴水の水をあび いっとき身を休める様を眺めている
指紋押捺闘争を闘った親爺さんが焼く広島焼きを
昨夜 頬張った口蓋の感触を思い出し

 「ヒロシマ」は「ヒロシマ、わたしの恋人/二十四時間の情事」から遠く、「広島焼き(お好み焼き?)」となって船越の「肉体」になる。
 これはいいなあ。
 食べて食べて食べて、そこにいる人とつながる。食べ物があるとき、そこにはそれをつくった人がいる。ブロッコリイを買うとき、それをつくっている人は直接は見えないけれど、かならずそれをつくった人がいる。つくる「時間」があり、つくる「土地」がある。そして、そこに「暮らし(肉体の思想/思想の肉体)」がある。それと向き合うかぎり、「思想」は妙な具合には浮つかない。暴走しない。

こんな半島にまで
いつのまにかショッピングモールが誕生した
田圃のなかの人工都市
誰も来ないよ
などと侮っていた自分を いまでは 大いに羞じている
マクドナルドもギョーザの王様も
何だってあるんだ
安くて美味しい餃子をふーふー食べる
安くて美味しい坦々麺をつるつる啜る
休日には わたしも
恋人と手をつなぎ出かける
                   (「半島論あるいはとりつく島について」)
 
 この「食欲/幸福」から反撃するとき、3月11日に立ち向かう「思想(肉体)」がたしかなものになる。
 その詩を書きつづけてもらいたい。


半島論あるいはとりつく島について
船越 素子
思潮社