谷川俊太郎『こころ』(33) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(33)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「手と心」を読みながら、すけべっていいなあ、と思う。年齢に差がない。そして国籍にも差がない。人間のすることは同じだ。その「同じ」が全部を引き寄せる。

手を手に重ねる
手を膝に置く
手を肩にまわす
手で頬に触れる
手が背を撫でる
手と心は仲がいい

 「手と心は仲がいい」かどうかわからないけれど、手はこころのいうことを聞いて動いてくれる。いや、それとも手の動きに合わせてこころが動くのかな?
 で、ここまでは、すけべもそんなにたいしたこと(?)はないのだが、2連目はどうかな? 「こころ」は朝日新聞の夕刊に連載された。そのページは子供も読むページだったと思うけれど(私は子ども向けのページだと思って読んでいたけれど)、うーん、

手がまさぐる
手は焦る
手が間違える
手は迷走しはじめる
手ひどく叩かれる
手はときには早すぎる
心よりも

 これって、すけべな手が、「だめ」と叱られて、手をたたかれるってことだよね。こういうことって、若いときにも、中年のときにも、谷川のような老人になっても起きることなんだね。
 これを、子供にも、平気で、ことばとして差し出す。ここが、不思議。
 人間って、いったいいくつからすけべなんだろう。
 ここに書いてあることば、それが肉体の動きとして「見える」のは何歳からだろう。わからないけれど、きっと、このことばを読むことができる年齢の人間なら、そのまますぐわかるし、ことばが読めなくても、そういう肉体の動きを見たことがあれば、きっとすぐわかる。

 最後の2行が、まあ、「意味」なんだろうけれど。鑑賞のポイント(分かれ道)なんだろうけれど、私は「意味」から離れて、つまり「文学」に背を向けて、もっと切実な問題として(すけべになって)、考えてみたい。

手はときには早すぎる
心よりも

 この手は、女の体をまさぐった手? それとも間違えたふりをして微妙なところへのびてくる手をたたいた手? どっちのことを言っているのだろう。相手のこころに気を配るよりも、まず自分の欲望で動いてしまう手(肉体)を「早すぎる」と言っているのか。それとも、そんなふうに動いてくる手を拒んでしまった手に対して、「だめ」と叩いたりしなければよかったと思っているのか。
 つまり、というか、なんというか……。
 で、すけべは、それからどうなるの?
 いたずらな手は叩かれておしまい? 叩いておしまい?
 そうじゃないかもしれない。それが刺戟になって、「早すぎる」展開が、さらに加速することもあるよね。
 というところまで妄想すると、うーん、これは子供の妄想を通り越しているかな?



女に
谷川 俊太郎
集英社