谷川俊太郎『こころ』(22) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(22)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「夕景」。簡単に夕暮れの街をスケッチし、そのあと。

見慣れたここが
知らないどこかになる
知らないのに懐かしいどこか
美しく物悲しいそこ
そこがここ
いま心が何を感じているのか
心にもわからない

 ここがどこかわからないように、いまの気持ちがわからない。この「わからない」は、後者の「いま心が何を感じているのか/心にもわからない」は、わからないというより、言い表すことばがみつからない、ということ。そしてそれは夕暮れの街にも通じる。ここがどこであるかは知っている。でも、その名前で呼んでいた時とは違って感じるので、知っている名前で呼んでいいかどうかわからない。知っている、と結びつけると何かが違う。
 それは「覚えている」といっしょに生きている。覚えているから懐かしい。
 この矛盾の切なさ。いいなあ。

 ふつう、詩は、ここで終わる。抒情で終わる。でも、谷川は、その矛盾の定型、「流通抒情」から逸脱してゆく。

やがて街はセピアに色あせ
正邪美醜愛憎虚実を
闇がおおらかにかきまぜる

 うーーーーーーん。
 抒情を、「意味」がこわしてゆく。抒情にひたろうとするこころを、「正邪美醜愛憎虚実」という観念的なことばが壊してゆく。夕暮れは消えて、闇が現れ、闇の本質が突然語られる。
 すごい力技だなあ。
 夕暮れは、闇にかえる前の一瞬のことであると言いたいのかもしれないが、闇の魅力、魔力について語りたいのかもしれないが、そうなら、タイトルはなぜ「夕景」?
 たった14行の詩に、ふたつのことを書かなくてもいいのでは? と思うのは、私が古い詩にとらわれているためだね。
 詩の、激しい未来が、谷川のことばのなかにある。「激しい未来」というのは奇妙な、日本語ではないことばだけれど、そう呼びたい。


こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版