詩を読むとき、その「入り口」はどこだろう。私は、リズムである。このリズムについて語るのはとても難しい。私の肉体に合うか合わないかしか言えない。
水島英己『小さなものの眠り』についていえば、その大半が私のリズムではない。音が聞こえてこない。
唯一、とても気持ちがよかった詩がある。「Tangled up in Tongue」。「ロリータ」の引用から始まる。
「・・・・舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩目にそっと歯をたたく」
そこから物語ははじまる
姉は弟の舌に
父は娘の舌に
女神は
「私の舌をぬらした」
「した した した。耳に伝ふやうに来るのは 水の垂れる音か。」
「蝸牛螺旋巻(まいまいねじまき)、マ、ミ、ム、メ、モ。
梅の実落ちても見もしまい。」
「雷鳥は寒かろ、ラ、リ、ル、レ、ロ。
蓮花が咲いたら、瑠璃の鳥。」
引用が説明抜きに結び付けられている。意味は飛躍し、ことばの道筋(ストーリー)は見当がつかないのに、一行一行の音が魅力的である。読んでみたい、と耳が騒ぐ。
白秋だと思うのだが「まいまいねじまき、マ、ミ、ム、メ、モ。」なんて、早口ことばみたいで、口蓋、舌、のどがぴくぴく動く。1行のなかにある音が意味をはなれて音楽になる。それがうれしい。
私は音痴だし、歌謡曲(いまは、もうこんな言い方はしないようだが)はピンクレディと山口百恵とサザンオールスターズの初期以後は知らないのだが、知りたくない理由が、音が聞こえないということにある。声が聞こえない。ことばは、文字を読めば追うことができるが、声を音として追いかけることができない。「現代詩」もだんだんそうなってきて、つらいなあ。
脱線したが、脱線ついでに、引用した作品の前のページには「坂」という詩の後半がある。
引き綱のような長い糸が紫色の空を背景にして
音もなく降りてくる
船や仏や家や豚、一切合財がその糸に織り込まれている
これ、読めます?
私は「音もなく降りてくる」は耳で読むことができるが、前後の2行はむりだ。音が多すぎて、響き合わない。肉体の中で、寸前に発した音がよみがえり、後押しするようにすすむ感じがしない。音が、肉体の中からあらわれてくる快感がない。
比較していいのかどうかわからないが、「まいまいねじまき、マ、ミ、ム、メ、モ。」は意味はわからないが、音を誘うでしょ? 真似して言ってみたくなるでしょ?
ことばは「言ってしまえば」それでいいのだ。いみなんて、あとからでっちあげたものにすぎない。つまり嘘に決まっている。わたしのこの文章にも、論理や意味があるように見えるかも知れないけれど、それは何度か同じことばが繰り返されるから、そんなふうに感じるだけのことだ。繰り返されると、何かが少しずつ、繰り返しの奥にあるものを思い出させる。それだけのことである。
そして、それだけのことなのだが、たぶんそのそれだけのことが大事。ことばには音があり、その音はかけ離れた音を引き寄せる。音に引き寄せられて動く官能がある。それが意味を遠いところで揺さぶり、ことばを解放する――そういう錯覚を引き起こすことばを、私は、感じない。
舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩目にそっと歯をたたく
「が」という濁音のくりかえし。「さんぽ」の繰り返し。「が」を鼻濁音で発音すれば「さんぽ」が「sampo」の「m」と響き合うこともわかる。つまり、「三歩」は単に舌の位置の表現だけではないことがわかる。
原文の英語では、どの音が響き合うのか、私の知ったことではないが。――と書くと、それは変だ、つじつまが合わない。非論理的だという声が聞こえてきそうだが。
どうして?
と、私は開き直る。
私は水島のことばを日本語として読み、日本語の音のことを言っている。ナボコフの原文の音など、私には関係がない。
どんどんずれていってしまうが、これが、今日私が感じたこと。
水島の作品に強引に戻って、思いつくことを言いなおせば、水島のことばの運動には「同伴者」がいるのだが、たいていの場合、その同伴者は「意味」として同伴する。そのため、そこには音(音楽)が入り込みにくく、ことばは軽さを欠いている。
これは、水島にかぎらず、私が最近の詩で感じていることでもある。
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