藤野可織「爪と目」 | 詩はどこにあるか

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藤野可織「爪と目」(「文芸春秋」2013年09月号)

藤野可織「爪と目」は芥川賞の受賞作。
とてもいやな感じが残る文体である。途上人物は3人+1人、じゃなかった、女2人に男2人――でもないなあ。女2人。父親の愛人(後妻)と父の連れ子の3歳の少女、と言った方がいいのかな? 厳密にいうと死んだ母親も出てくるから女3人?
こういう単純なところからややこしくなるくらいに、いやあな感じなのだ。それは一番いい部分の文章を見るともっとはっきりする。

水分を失った眼球は、型くずれしはじめていた。ほんとうならただ丸く膨らんでいるはずのまぶたは、膨らみの最頂部でぽこんと小さく凹んでいた。それが、死んだわたしの母のまぶただ。           (428ページ)

しおり紐が「し」のかたちではさまっていた。まだ一度も使われていないしおり紐だった。その薄紫色のしおり紐をつまみあげると、ページの表面が同じ形にくぼんでいた。                  (431ページ)

「もの」のへこみが描写されている。へこみの原因は違うのだが、対象を長く見つめてきた人間だけが気づく小さな対象の変化である。これが「ひとり」の登場人物の視点なら、それはそのひとの個性になる。ところがこの小説では、前者は3歳の少女、後者は父の愛人である。年齢も立場も違う人間が、同じようにもののへこみに目をこらし、それを丁寧に描く。これは奇妙である。
ふたりの人間には共通項がある――ということを暗示しているととらえることもできるが、そうではなくて作者が最初からふたりをふたりとして描き分けることを放棄している。「わたし」と「あなた」を区別していないのだ。
だから気持ちが悪い。
 人間の感性は通い合い、そこには「わたし」と「あなた」の区別がないという哲学を書きたいのなら、へこみというものを共通させるのはなく、違ったものをぶつけて、そこに、いままで存在しなかった新しい「存在の形式」を登場させなければ、昇華にならない。弁証法にならない。私は弁証法を信じるわけではないのだが、こんな奇妙な「合致」はきもちがわるくてやりきれない。

小説のストーリーは書きつくされ、文体の特異性でしか作家は個性を発揮できないということか。特異な文体なら「現代詩」にあふれている。「感覚」をことばに定着させる競争なら「現代詩」のあちこちでおこなわれている。
変な文体の前に、人間の手触り、抵抗感を書いてもらいたいと思う。人間を読みたい。



爪と目
藤野 可織
新潮社