谷川俊太郎『こころ』(14) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(14)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

「こころのうぶ毛」は、わからないところだらけである。

自分でも気づいていないこころ
そのこころのうぶ毛に
そっと触れてくるこの音楽は
ごめんなさい
あなたのどんな愛撫よりも
やさしいのです

 「この音楽」って、どの音楽? 「この」がわからない。でも、彼女(彼ではないと思う)がいう「ごめんなさい」以下は、「わかるなあ」という感じ。でも、ほんとうにわかるのかと問われるとあやしくなる。
 「わかる」は、彼女の感じていることがわかるのではなくて、そういうことがあるなあ、と自分の体験を思い出しているのである。肉体が覚えていること思い出している――と書き直すと、私が繰り返し書いていることになる。
で、そうすると。
そのときの「この音楽」は読者一人ひとりの覚えている音楽。
読者一人ひとりだから「この」も一人ひとり違う。モーツァルトとかサティとか特定できない。
ふうううううん。私は書きながら、これでいいのかなとちょっと不安。谷川って、こんなに理詰めで詩を書く?
私の感想は、きっと間違っている。

2連目はもっとわからない。

宇宙が素粒子の繊細さで
成り立っているのを
知っているのは
きっと魂だけですね
あなたのこころは
私の魂を感じてくれていますか?

 「知る」は知識。頭の仕事。とは簡単には言えないね。こころで知る、いや魂で知る。こころで感じる、いや魂で感じる。こころと魂と、どっちが上(?)かな。なぜ、区別があるのかな。わからないけれど、ある瞬間はこころと言ってみたい。ある瞬間は魂がしっくりくる。知るも、感じるも、ちょっとずつ違うのでなんとなく使い分ける。
この感覚は、わかる。
っ変だね。



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谷川 俊太郎
新潮社