水のたとえ
あなたの心は沸騰しない
あなたの心は凍らない
あなたの心は人里はなれた静かな池
どんな風にも波立たないから
ときどき怖くなる
あなたの池に飛び込みたいけど
潜ってみたいと思うけど
透明なのか濁っているのか
深いのか浅いのか
分からないからためらってしまう
思い切って石を投げよう あなたの池に
波紋が足を濡(ぬ)らしたら
水しぶきが顔にかかったら
わたしはもっとあなたが好きになる
前に感想を書いたと思う。意味が消える、別の意味にとってかわる--というようなことを書いたと思う。
その感想と同じになるか、まったく違うものになるかわからない。
1連目、2連目は池を描写している。
3連目は「石を投げる」ということばがあって、そこで詩がずいぶん変わる感じがするが、どう変わったのかな? 2連目も「潜る」ということばがあって、潜るの方が水に接触する部分が多いから、2連目の方がほんとうは「あなたの心」を知ることになるかもしれない。よく考えると。でも、3連目の方が印象的。
たぶん。
水に潜っても、水は変化しない。わたしが水に飲み込まれている。水はわたしを飲み込み平然としている。--この平然にわたしは戸惑っている。
3連目の石を投げるは、わたしは水の外にいて(安全な場所にいて)、水だけが変化する。それがおもしろいのかもしれない。
わたしは、水の変化が見たいのだ。変わる瞬間に何か、いままで見えなかったものが見える。発見できる。
それはもしかすると、わたしに水しぶきがかかるということかもしれない。水が動いてきて、わたしに接触する。ポイントは、水が動いてくるということだね。わたしが動いていくのではない。
あなたが動いてくるなら、「わたしはもっとあなたが好きになる」。
わたしがあなたを好きな理由は、あなたの心がいつも落ち着いているから。でも、そのこころが乱れたなら、そしてそれがわたしに影響してくるなら、もっと好きになる。
わたしはもっとあなたが好きになる
これは、「もっと好きになりたい」ということだね。
いまも好き。でも、もっと好きになる。「好き」というのは、変わるのである。好きが嫌いにではなく、「もっと」好きに「なる」。それは、もっと好きに「なれる」ということ。
ひとは変わる。
わたしは、あなたが好き。それが1連目。3連目では、あなたをもっと好きに「なれる」。変わってしまっている。この変化のなかに詩がある。1篇の詩を書くと、書いたひとは書きはじめたときの「わたし」から変わってしまう。そこに詩がある。
*
この詩には、一か所、つまずくところがある。2連目の、
深いのか浅いのか
これは不思議。「意味」はわかる。その前の「透明なのか濁っているのか」と対句になっている。だから透明の反対の濁るに対して、深いと浅い。
でも、実際に潜るということを想像した場合、ほんとうにこんな具合に考えるかなあ。想像するかなあ。
私は、その池が、どこまで深いのか、ということに悩むと思う。もしかすると果がない。あるいは底だと思っていたら、それが私に絡みついてきて、飲み込まれてしまう。底無しの池。「浅い」は「潜る」ときの疑問のことばにはなってこない。
「潜る」とき、「深い」の反対側にあることばは「底無し(どこまで深いかわからない)」だと思う。
--これは意地悪な読み方なのかもしれないけれど、「浅い」ということばは、「好き」という実感からは遠いことばだなあ、と思う。対句という方法にひっぱられて動いたことばだなあ、と思う。「頭」で書いた1行だな、と思う。「頭」が出てきてしまった、といえばいいのかもしれない。
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