フランス映画文法というか、スタイルというか。フランス以外ではこんな映画はできないね。で、それを真似して「アメリカン・ニューシネマ」が生まれるわけだけれど、というと言いすぎかな。
どこがフランスかというと。
撮りたいシーンがあるから撮る。あとでストーリーを考える。ストーリーなんて、どうとでもなる、というところかな。
冒頭のアラン・ドロンの飛行機の曲乗りなんて、意味がない。飛行機である必要なんてどこにもない。凱旋門の下をくぐるなんて、それ以後のストーリーの伏線になっている? なっていないよねえ。リノ・ヴァンチュラのエンジニアだって伏線になっていない。エンジニアの知識(技術)をつかって難局を乗り切る--というような感じではないからね。だいたい、アラン・ドロンとリノ・ヴァンチュラがなぜ友人なのか、それすらわからない。ジョアンナ・シムカスはだいたい危険が好きなの?
どうでもいいんですねえ。
この映画は、最後の舞台になる海の上のビル(廃墟)を見つけたところから始まっているね。なんとか、これを映画に撮ってみたい。(長崎の「軍艦島」を撮ってみたい、というのと同じだね。)廃墟には不思議な美しさがある。そこにあった暮らしを想像させ、幻のように、ひとが動くのが見える。廃墟というのは死んでいるのだけれど、「新天地」の夢も誘うからね。
で、それを、どうやってストーリーに組み込むか。
まあ、いいかげんだね。ジョアンナ・シムカスが、その島で創作活動をしたい。海に囲まれて刺戟を受けながら……というようなことをいうけれど、彼女のつくっている金属の前衛オブジェがそれじゃあ海を連想させるかというと……モビールの揺らぎが海につながると言えるかもしれないけれど、あまり関係ないなあ。理屈(理由、動機)なんて、あとからいくらでも言える。そんなものは無責任なもの。信じてはいけないね。
そういうこととは関係なく、たとえば突然南の海へ旅行しよう(宝探し行こう)ということになって、アフリカっぽいダンスをして楽しむとか、宝探しに行ってもボートに乗って遊ぶとか(ボートを自転車に帰ると「明日に向かって撃て」になるね)、そういう瞬間的な「生の充実」を撮りたかったということがわかる。
この生の充実の瞬間を積み重ねれば、それが映画--というのはレオン・カラックスのスタイルに通じる。フランス映画の基本の基本の「文法」なんだね。他人が迷惑を受けようがどうしようが、そんなことはどうでもいい。ストーリーが見えなくなろうがどうなろうがどうでもいい。ほら、このシーン、役者が楽しそうでしょう。その楽しみに飲み込まれるでしょう。このシーンきれいでしょう。見たことないでしょう。いいでしょう、というのがフランス映画。
レオン・カラックスみたいに汚くないかぎり、私は、まあ、好きだなあ。
そういう映像とは別にフランス人気質を探してみると。
ジョアンナ・シムカスの遺族を探していく。いやな夫婦に出会う。遺品はこれだけ、と身の回りの品を広げる。でも、そのあと博物館であった少年が息子だとわかると、その息子のために1億フランを遺産として差し出す。気に入った人間にはどこまでも親切。気に入らない人間には礼儀だけ。この明確な区別。法律やなんかはどうでもいい。自分の気持ちが納得できるかどうか。何に納得して行動しているか--それが大事。博物館の少年は、ちゃんと自分でその仕事を納得していて、情熱をそそいでいる。そういう「個性」を守る--それがフランス人気質なんだね。そういう「個性」を生きていないひとはフランス人じゃない、と批判されるということかもしれないけれど。
(2013年08月03日、ソラリアシネマ9)
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