谷川俊太郎「こころ」再読(3) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎「こころ」再読(3)

 谷川俊太郎は平気で他人を書く。「私」以外の人間を登場させる。

彼女を代弁すると

「花屋の前を通ると吐き気がする
どの花も色とりどりにエゴイスト
青空なんて分厚い雲にかくれてほしい
星なんてみんな落ちてくればいい
みんななんで平気で生きてるんですか
ちゃらちゃら光るもので自分をかざって
ひっきりなしにメールをチェックして
私 人間やめたい
石ころになって誰かにぶん投げてもらいたい
でなきゃ泥水になって海に溶けたい」

無表情に梅割りをすすっている彼女の
Tシャツの下の二つのふくらみは
コトバをもっていないからココロを裏切って
堂々といのちを主張している

 前半の「彼女」のことばは、「彼女」がほんとうに言ったことばなのか。そうではなくて、谷川が感じていることを「彼女」に語らせたのかもしれない。どちらでもいいが、どちらにしても、そこには「他人」がいる。

石ころになって誰かにぶん投げてもらいたい
でなきゃ泥水になって海に溶けたい」

 この2行は、どうみても「彼女」のことばではない。それまでのことばと文体が違いすぎる。こころの奥深くをとおって、整えられている。「石ころ」「泥水」という比喩によって、思考(肉体)が整えられている。
 谷川自身のことばである。けれど、それは谷川が隠していることばという意味では、やはり「他人」だろう。
 この「他人」は、これまでの詩で、私が「矛盾」と呼んできたものかもしれない。
 いま、こうしている。けれど、その、いま、こうしているのとは違うものがある。それはまだことばになっていないけれど(ことばになっていないから?)、ことばになろうとしている。
 そして、ことばになる。そのとき、そこに詩がある。

 前半だけで、詩、が成立しているのだけれど、そしてそれがあまりにも「谷川詩」なので(谷川自身のなかにある「他人」の噴出)なので、谷川はそれをちょっと隠す。
 それが最後の4行。
 若い乳房のみなぎる力。
 それを描くことで、「彼女」の「体(いのち)」と「ココロ」を対比させている。
 それは互いに拮抗して、戦いながら、生きている。それはほんとうは「協力」なのだが、ココロにも体にも「裏切り」に見える。
 その「裏切り」を私は「矛盾」と呼ぶのだけれど、そこに「意味」にしてはいけない詩がある。

二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社